新国立劇場『ルチア』公演(2017年3月)のお知らせ

女性の狂気を描いたオペラの白眉である『ルチア』の公演。2017年の3月に新国立劇場で。本当に恥ずかしい話ですが、舞台で観るのはこれが初めてです。時間の余裕があれば、少し学術的なことも調べてから観ようと思っています。

 

新国立劇場Webボックスオフィスからのお知らせ
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このメールは、新国立劇場Webボックスオフィス会員の方で、お知らせの送付を希望されている方にお送りしています。
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悲しみは「狂乱の場」で頂点に。引き裂かれた愛の悲劇

ドニゼッティ作曲によるベルカント・オペラの最高傑作『ルチア』を待望の新制作で上演します。
兄エンリーコに恋人エドガルドとの仲を引き裂かれたルチアの悲劇
ドラマのハイライトであり最大の聴きどころは、絶望のあまり狂気に陥ったルチアが歌う「狂乱の場」です。
今回はオリジナル通りのグラスハーモニカで演奏する予定です。
演出を手掛けるのはモンテカルロ歌劇場総監督のジャン=ルイ・グリンダ。
作品に忠実でありながら機知に富む演出で定評のあるグリンダが、ロマンティックで劇的な物語をどのように描き出すか注目です。

《アトレ会員先行発売》 アトレ会員は定価の10%OFF
【受付期間】2016年11月3日(木・祝)10:00~11月15日(火)23:59
【アトレ会員購入サイト】http://w.pia.jp/a/00089383/

新国立劇場WEBボックスオフィスゲスト会員先行発売》
【受付期間】2016年11月4日(金)10:00~11月6日(日)23:59
【ゲスト会員購入サイト】http://w.pia.jp/a/00089384/

【定価料金(税込)】
S席27,000円 A席21,600円 B席15,120円 C席8,640円 D席5,400円(座席選択可)
新国立劇場WEBボックスオフィスゲスト会員先行発売では、S・A・B席の受付をいたします。
C・D席をご希望の方は、11月19日(土)10:00からの一般発売をご利用ください。


【公演日程】2017年
3月14日(火)18:30 オペラパレス
3月18日(土)14:00 オペラパレス
3月20日(月・祝)14:00 オペラパレス
3月23日(木)14:00 オペラパレス
3月26日(日)14:00 オペラパレス

「ルチア」公演サイト(PC)
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/151224_007959.html

江戸時代の医師と階級

江戸時代の医師と階級制度について。士農工商の士と農工商の経界を跳び越すことができた数少ない職業の一つの医者であった。実際には医者はサービスや薬を提供して、それに対して報酬を得るサービス業・小売業であったが、商人とは異なるという強い意識を持っていた。浅田宗伯にお薬代はいくらかと尋ねたところ、玄関番が医者は商売ではないと𠮟りつけたというエピソードが残っている。それを語る水戸藩の侍医になった人物の長い論説が掲載され、医者は帯刀するべきであると主張している。
 
三田村鳶魚は江戸時代の医者を非常に贔屓にしている。近代医学のもと、医学が成長してステータスを上昇させていた時期だからだろう。またこれは『医文学』という、基本的には医者を対象として雑誌であったため、読者の顔色を窺った部分もあるのかもしれない。
 

種子島の伝統(日本野鳥の会の会誌より)

日本野鳥の会の会誌『野鳥』の今月の特集は種子島。もちろん鳥や生態系の話題が中心だが、種子島郷土史家の鮫島安豊の「種子島の歴史・民俗」という文章も掲載している。生態系の話と歴史が共存し合体していくのは、非常にいい傾向だと思う。たしかにこの文章は種子島の鳥とはほぼまったく関係ないが(笑)、でも、こういう記事が野鳥の会の雑誌に掲載されているのは、正直、嬉しいことである。野鳥の会も、もちろん鳥を偏愛する態度をキープしていいのだけれどお、それと並行して、郷土史の話を載せるようになるあたり、いいことだなと思う。
 
種子島は1543年に鉄砲が伝来したが、これは僻遠地への伝来ではなく、即座に国産化と量産に成功し、しかもすぐに堺などにもたらされて全国の戦国大名らが存在を知り入手するようになった。種子島に、それ以前から鉄砲を生産するのに必要な技術をそれを支える文化があったからに他ならない。この伝統は古代にまで遡るもので、種子島は遣唐船や遣明船などの寄港地であり、中世期から近世期には、琉球、南蛮、明などの地域から文物を摂取することを目指した諸大名たちは、頻繁に交易をおこない、その中継基地として種子島は発展してきた。これも古代からの伝統であるが 刀鍛冶が種子島に移住したうえに(これは流刑の場合もあった)、種子島の海浜に存在する浜砂鉄が刀鍛冶の重要な背景となっていた。

災害頻発性神経質、あるいは人格的危険階級

Burnham, John C. Accident Prone : A History of Technology, Psychology, and Misfits of the Machine Age. Chicago, Ill. ; London: University of Chicago Press, 2009.
 
平松、真兵衛. "工場災害の生物学的研究 特に 血液型と工場災害並に性向との関係に就て ". 労働科学研究 9, no. 5 (1932): 565-611.
 
1920年代から戦後にかけて、近現代の機械化された労働環境を管理するために、特定の労働者が事故を起こしやすい性格を持っているという言説が現れた。産業としては重化学工業や鉄道やバス、自動車の運転などの交通産業が重要であった。地域としては、本書はドイツ、イギリス、アメリカをはじめとする欧米各国で差異を伴いながら同じ動きが現れたことを論じている。ことにドイツとイギリスに関しては、同時発見と言えるだろう。本書は触れていないが、日本は欧米から学んだのだろうが、わずかの時間差で同じ動きが現れている。
 
唱えた人物としては、ドイツの心理学教授のKarl Marbe とイギリスの産業心理学者の Eric Farmer が主体であり、その周辺に、多くの著名な人物がいた。イギリスの疫学者の Major Greenwood もその形成にかかわった一人である。特にイギリスでは、1910年代の第一次大戦期の総力戦において、国民の労働の合理的で適切な利用のために疲労 (fatigue) を研究するプロジェクトの中で、どのような形で労働事故が起きるのかを研究した。その過程で、特定の人物が数多くの事故を起こしており、その人物が問題であるという考えがあぶり出されてきた。
 
この考えは、労働者の配置と解雇を軸に考える経営サイドにとっては「ありがたい」話であった。一方、労働者の条件改善を唱え、信頼できる機会やよりよい労働環境を目指す労働者サイドにとっては、「歓迎されざる」話であった。著者のバーナム先生はその部分は書いていないが、イデオロギー的な対立点を含む言説であった。
 
日本においても、この考えはさまざまな医師や心理学者たちが論じて、労働衛生の一つの考えとなった。この考えは、「災害頻発性神経質」「神経質性労働者」「災害傾向」「災害姿質」「災害反復性」などの訳語を宛てられた。「人格的危険階級」というものもあった。ただし、「危険」というのは、その人物が暴力をふるったりすることを少なくとも直接はささず、作業場の安全を損なうという意味だろう。しかし、特定の個人の性格を記述する言説であったことは間違いない。
 
この概念を日本に適用した平松真兵衛は大阪の工場監督官で、ひとかどの労働衛生家である。しかし、彼が欧米の概念を適用した時に、日本社会に根付いた代表的な疑似科学である血液型と性格に関する議論を用いたことは、やはり興味深い。話の流れとしては、本人や同僚に理解できる性格ではなく、血液型と災害頻発性が関係があるという議論は、労働管理を医学の身体的な知識で下支えしようという意図があったのだろう。

コンファレンスの演題募集 <測定と自己形成> 

2017年6月末にユトレヒトでコンファレンスの演題募集。<測定と自己形成>という興味深い主題です。

 

Call for Papers Workshop Histories of Measurement and Self-making. | H-Sci-Med-Tech | H-Net

 

Call for Papers Workshop Histories of Measurement and Self-making.

Fenneke Sysling's picture

 

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Call for Papers

 

Workshop: Histories of Measurement and Self-making.

Date: Thursday 29 and Friday 30 June 2017

Venue: University of Utrecht, the Netherlands

 

Speakers:    Hilary Marland & Roberta Bivins (University of Warwick)

                    Harro Maas (University of Lausanne)

 

Today, people increasingly use digital technologies to collect data on their health, habits and wellbeing and sociologists of science and technology have started to discuss how these development change our notions of identity, autonomy and privacy. This workshop explores the histories of these practices, looking at different forms of measurement and self-management in the 19th and 20th century. So far, historians have paid more attention to the role of scientists and the state in producing data about people than they have to individual practices. The aim of this workshop is to trace the genealogies of today’s culture of quantification and to investigate the role of (personalized) quantification in the making of the modern self. 

 

We seek to address the following questions: How were scientific techniques such as quantification applied to the individual body and household? How were sciences such as phrenology, medicine, statistics and anthropometry made personal? How did quantification change people’s understanding of themselves? How did numbers become an incentive to self-improvement? Do today’s metric practices represent change or continuity?

 

We invite submissions on topics related (but not limited) to histories of:
 

  • personal quantification
  • self-monitoring, self-tracking and self-management
  • Private numbers and public numbers
  • Popular science and personal uses of quantification
  • How individuals related to statistics and averages
  • Measurements in the household
  • Numeracy/quantitative literacy
  • Accounting tools in the home
  • Measureing as entertainment
  • Self-surveillance

 

Deadline and contact information:

Abstracts (max. 300 words) for a 20-minute paper and a short biographical note should be sent by 6 January 2017 to: f.h.sysling@uu.nl

 

Organizers: Fenneke Sysling and Hieke Huistra (University of Utrecht)

 

This workshop is organized as part of the project The Quantified Self: a history – funded through the Veni Innovational Research Incentives Scheme of the Dutch Science Foundation (NWO) and with support of the Descartes Centre for the History and Philosophy of the Sciences and the Humanities in Utrecht.

日本におけるジェンダーと医学の歴史―シンポジウムのお知らせ

2016年11月1日に、アメリカのジョンス・ホプキンス大学にて、日本のジェンダーと医学の歴史のシンポジウムが開催されてます。オーガナイザーはホプキンス大のユミ・キム先生、スピーカーは、江戸時代の医療の歴史の研究者であるエヴァン・ヤング先生(ディキンソン大学)、日本の衛生兵の歴史を研究して博士号を取られたばかりのレウト・ハラリ先生(テル・アビヴ大学)などです。コメントは、ホプキンスのメアリー・フィセル先生。さまざまな意味で、日本の医学史研究が発展するうえでの、重要なきっかけになると思います。

 

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江戸の医者における異なった格―三田村鳶魚より

江戸時代の医者、あるいは江戸の医者には、さまざまな格の違いが存在した。上からいうと、将軍の侍医である奥医者、将軍に謁見できるお目見え医者、患者の家に往診するときに長棒の籠に乗る乗物医者、最後が歩いて患家に行く徒歩医者(かちいしゃ)である。この違いが何の違いと言えるのか、私にはよくわからない。「異なった格」「格の違い」と書いたのは、私自身が憶えるためである。顧客は誰か、営業形態はどのように違うのかという問題もあるし、お目見え医者が患家に向かう時には、大名の行列にあっても下座しなくてよいという身分を超えた特権を認められていたという違いもある。

ついでにいうと、診療代や、その他の代金も異なっていた。その他の代金は「仕度料」と記されている。これは、徒歩医者においては安く、乗物医者においては高い。(おそらく、お目見え医者や奥医者はさらに高いのだろうと思う)乗物医師のほうが格が高い医療だから、価格も高くなるというのはある意味で当たり前である。ただ、それならどの医者も乗物医者になりたかったというと、乗物医者になると単価が高くなるが患者の数は減るので危険が大きな選択だったという記述がある。

仕度料は、かなり大きなものであった。奥医者になると、薬箱持、挟箱持、草履取りなど、10人ほどのお供を連れて患家に行った。このお供のものすべてに食事や酒を出す礼儀が患家にはある。これは、現実に食事などを出すより、食事などのお代を人数分渡すということになる。だから、知人の医者と一緒に悪ふざけをして、病気になった友人の家に格が高い医者の往診と称して訪れ、膨大な仕度料を請求するというエピソードもあるとのこと。

最後に、この話を覚えやすくするために。昭和期になっても医師に渡していた「車代」というのは、その言葉がいつ発生したのかは知らないが、この仕度料が変化したものである。実際、車代というのは本気で高価であるケースがある。

個人的なこと。これは、記憶力の老化を防止するために、前の晩に読んだ内容を翌朝思い出して書いた記事である。できれば毎日このようなことをしよう。文献は三田村鳶魚『鳶魚江戸文庫 24 泥棒の話 お医者様の話』(中公文庫)からである。