インドとトルコのシャンプー療法について

 
今日のDNBは、ディーン・マホメッド (Deen Mahomed, 1759-1851)。インドからイギリスにわたり、ロンドンとブライトンで開業して成功した「シャンプー外科医」とレストラン経営者である。このあたり、私が知らない話題であるが、外国由来の医療を考えるときに面白い主題なのでメモ。

シャンプーというのは、語源はおそらくヒンディー語で「押す」という意味の campo ではないかと OED に記されている。18世紀の後半から英語として用いられるようになった。もともとは、医療と美容術における治療的全身マッサージのことを言った。19世紀半ばの医学書を見ると、シャンプーというのは東インドで行われている、肌と筋肉を手でマッサージする手法で、熱い地域で戸外での運動が難しい場合は、手でかなりの刺激を与えたという。疲れたり、手足がだるくなったりしたときに、活発な「シャンプー」を四肢にしてもらうととても気持ちいいという。 現在のように頭皮や頭髪を洗うことを意味するようになったのは19世紀の後半である。この意味でのシャンプーを提供した人物がこのマホメッドである。インド風の風呂やトルコ風の風呂でのサービスの一つとして提供されたらしい。彼はロンドンやブライトンでインド料理の店も展開し、タバコ水パイプや竹の家具などをそろえてインド風のオリエンタルな雰囲気を出そうとしたとのこと。タバコ水パイプや竹の家具が、どのようにインドやトルコならではの雰囲気を作ることができるのかよくわからない。 インドの薬や歯磨きも売りさばいたという。 
 

アメリカの精神病院の建築の歴史 展覧会 

アメリカの精神病院の歴史展が、ワシントンDC の国立建築博物館 (National Musuem of Buildings) で開催されているとのこと。ワシントンDC のセント・エリザベス収容院で、1850年代に建設された当初は250人の患者用であったが、1960年代には8,000人の患者を収容できる巨大なものとなった。このサイトでは、治療の様子、医療機器、水浴療法の写真、孤独な患者の写真、患者の編み物の「作品」など、さまざまな興味深いマテリアルが掲げられている。最後に、他の精神病院関連の記事があり、これらも面白そうである。この展示は2018年の1月15日までとのこと。 


https://hyperallergic.com/373920/architecture-of-an-asylum-building-museum/?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=sw

 

f:id:akihitosuzuki:20161012130520j:plain

ガートルード・ジキル(バラ)の開花

 

f:id:akihitosuzuki:20170513065610j:plain

庭でバラが開く季節が始まりました。今日はあいにくの雨でしたが、ガートルード・ジキルが開きはじめました。
 
ガートルード・ジキルは、イングリッシュ・ローズで有名なデイヴィッド・オースティンが作成したバラ。イギリスでも人気がある名花です。開花の時期は毎年ごく早く、私の庭ではいつでも一番先に開花します。固く締まったつぼみから、一気に花開いて大きなロゼット型の花をつけます。
 
バラの名前のもとにあるのは、イギリスの女性庭園家のガートルード・ジキル (Gertrude Jekyll, 1843-1932) 。アーツ・アンド・クラフト運動の一翼を担い、イギリス、ヨーロッパ、アメリカに400近くの庭園を設計している庭園家です。現代では、おそらく最も重要な庭園家ではないかと思っています。庭の設計の大胆な構図に特徴があり、日本の庭園とどこか通じる何かがあるのかなあと漠然と思っています。
 

医療の社会史 30(2017), no.2 より。

Social History of Medicine, 30(2017), no.2 から。サイトは以下の通り。アブストまでは誰でも読むことができます。

https://academic.oup.com/shm/issue/30/2

Shepherd, Jade. "‘I Am Not Very Well I Feel Nearly Mad When I Think of You’: Male Jealousy, Murder and Broadmoor in Late-Victorian Britain." Social History of Medicine 30, no. 2 (2017): 277-98.

19世紀後半に、自らの妻を殺して精神錯乱の理由で処罰されずにブロードムーア精神病院に収容された男性に焦点を当てた研究。男性の嫉妬という現象をめぐって、精神医学、司法、文化がどのような態度を取ったのかという、一つの現象についての複数の層・集団がどのような関係にあったかを分析するという手法である。なんといっても『オセロー』の国ですから、文化や文学では深く根付いていた概念であったが、精神医学と司法ではまだまだ周縁的な概念であったという。

Powell, Julie M. "Shock Troupe: Medical Film and the Performance of ‘Shell Shock’ for the British Nation at War." Social History of Medicine 30, no. 2 (2017): 323-45.

これは、我々の多くが観たり授業で見せたりしている映像記録に関する研究。第一次世界大戦のイギリスの将校と兵士が、どのような「シェルショック」の症状を示したのかを、軍の精神病院で撮影した著名な映像がある。これは、1917年に撮影されて1918年に編集されただけでなく、1940年にももう一度編集されているという。1918年版では、階級制が強調され、個人と国家のトラウマの概念が強調され、国家とマスキュリニティーの危機と、それを乗り越える努力が前面に出ている。 一方、1940年版では、復古された第一次大戦の概念が前面に出ているという。アブストした見ていないので、よく分からないけれども、同じ映像を使った二つの映画を較べるという手法に感心する。

東京空襲と精神医療 - 外からのストレスと中からのストレス 

https://historypsychiatry.com/2017/05/11/new-book-therapeutic-fascism-experiencing-the-violence-of-the-nazi-new-order/

オクスフォード大学出版局から昨年でた著作『治療的なファシズムーナチ占領下で暴力を経験すること』についてのノートが h-madness に流れてきた。東欧、特にユーゴスラビアが、第二次大戦中にナチに占領されていた時代に、どのような精神疾患と精神医療の光景を経験したかという方向の書物であるとのこと。

このような記述は、私がこれまで主に読んできたイギリスやアメリカの戦争と精神医療の記述になかったものであり、それと同時に、私がいま書いている昭和戦前期の東京の精神医療の記述のある部分に、とても大きな影響を与えるものである。私が欲しかったものは、外からと中からの精神的なストレスを考える態度である。

外からのストレスを見る素材は、具体的に言うと空襲である。私が見ている精神病院は、東京の西ヶ原のあたりに位置した王子脳病院である。この病院は、1945年の5月末の大空襲で病院自体が全焼して消滅したが、3月の東京大空襲の被害者も受け入れたし、1945年の4月末日まで患者を退院させるという形で機能させていた。東京が空襲を受けていた時期には、その影響を受けて精神疾患を病むことになった患者を複数受け入れている。東京空襲は、市民にかなりの精神的な被害と疾病を起こしていたのは事実である。その時期に、あれは慶應医学部の精神科のチームが、空襲のあとの東京市民を調べて、空襲神経症など一人もいないといったのは、少なくとも事実に反している。精神医学チームが、治療だけでなく調査も行ったうえで、空襲は日本人の精神に影響を受けていないと判断したのが、ただの間違いか、空虚な嘘なのかは、今のところ私には分からない。このような空襲のストレスが発状した精神疾患が「外からのストレス」であると言える。第二次大戦中にこれと類似した問題がより大きかったのは、アメリカ合衆国ではなくヨーロッパであり、それもイギリスではなく東欧地域のような悲惨な攻撃を受けた場所の精神疾患の研究が参考になる。

内からのストレスと呼んだのは、この時期に東京市民の精神をむしばんでいたのは、日本の軍隊であり、政府であり、その下部組織であり、もっともいやな言い方をすると、日本人自身であったのではないかと考えられるからである。1944年になると、敗戦への恐怖、戦時体制に対する批判、天皇に対する批判的な言葉などが、妄想と入り混じるような形で症例誌に現れるようになる。これらは、空襲のような外から来たものではなく、当時の日本の軍や政府や市民が作り上げていた何かが原因なので、内からのストレスと呼ぶことができる。空襲のような鮮明さはないが、自分たちの社会がひずみを作り出していたことを、当時の東京市民はどこかで感知していたということになると思う。 

ちなみに、慶應の精神科のチームが行った調査は、以下の論文で読むことができる。そこでは、松沢病院など複数の精神病院が協力したという記述があり、王子脳病院は慶應の精神科とも深い関係を持っていたので、王子脳病院自体を見ているのかもしれない。

植松七九郎・鹽入圓祐「空襲時精神病―第一篇 直接空襲に基づく反応群」『慶應医学』 25巻、 2,3号(1948), 33-35.

中世の医学写本と患者の症例

グラズゴウの図書館が保有する、18世紀の著名な医師ウィリアム・ハンターが所蔵していた中世の医学写本に関する解説。オリジナルは、14世紀にイングランドで活躍した外科医のアーダーンのジョン(John of Arderne) この写本を詳細に研究したプロの中世医学史の専門家の筆によるもので、一般向けではあるが、非常に読み応えがある記述になっている。美しいマージナリアもふんだんに用いられているし、こういう水準が高いサイトを提供できればと思っている。

メモを二つ。一つは、アーダーンが書いている理想の外科医について。もちろんこの時期の外科は、基本的には手仕事の職人の段階で、アーダーン自身も大学は出ていない。ガレノスとかアヴィケンナとかいうけれども、ラテン語は不安定で方言か多言語的なものである。そういう人物が書く理想の外科医というのは、まじめで礼儀正しくて謙虚で、という質朴な職人像である。楽しい話をたくさん知っていて、患者を笑わせることができるというのが、根が明るい楽しい人のことを言っているとか、麻酔も何もない苛烈な外科の時代に、激痛に苦しむ患者に笑い話をかませろというダークな皮肉なのか、どちらかわからない。

もう一つは、患者の症例について。このテキストの末尾には14件の症例が入っている。書かれた当時は生きていた患者の疾病と、優れた技法による治療に関する生き生きとした記述であるとのこと。この写本にももちろんその症例が付されているが、興味深いことに、後に入れるはずであった患者の顔の肖像の部分が空白に残されていて、結局書いていないとのこと。この疾病は、おそらく、ヒポクラテス風ではなくガレノス風の症例で、治療の成功が描かれているものだと思われるが、そこで肖像がどのような意味があったのか、考えるヒントになる。

 

f:id:akihitosuzuki:20170511155236j:plain


http://special.lib.gla.ac.uk/exhibns/month/may2006.html

 

夕張の廃墟病院 An abandoned hospital in a city in Japan

An article (in Japanese) on the hyper-elderly society in Japan, which shows an eerie photo of the remains of an abandoned hospital.  Looks like a fascinating subject for a thesis of medical history.        

 

もともとは夕張の超高齢社会の貧困な老人を取り上げた記事で、この記事も胸が詰まるようなものがある。それと並行して、夕張に廃墟と化した著名な病院があり、廃墟ファンに人気のスポットであることも知った。史料的な状況がどうなっているか知らないが、この段階でも優れたマテリアルな史料であり、他に史料があったり、聞き取りなどができれば、医学史研究の素晴らしいマテリアルになると思う。

 

courrier.jp

 

f:id:akihitosuzuki:20151130064951j:plain