タイの仏像展 

www.nikkei-events.jp

 
国立博物館で開催される「タイ 仏の国の輝き」
 
これは、できれば行こうと思っている。タイや東南アジアの仏像や古美術は、楽しそうな道楽だと興味を持ちながら、落ち着いて本を読んだり現物を見る時間がないまま、ほとんど放置されている。今年は、少し時間を取ることができるだろうと思う。
 
メモ:触地印(そくちいん)について (Wikipedia より)
降魔印ともいう。座像で、手の平を下に伏せて指先で地面に触れる。伝説によると、釈迦は修行中に悪魔の妨害を受けた。その時釈迦は指先で地面に触れて大地の神を出現させ、それによって悪魔を退けたという。このため触地印は、誘惑や障害に負けずに真理を求める強い心を象徴する。釈迦如来のほか、阿閦如来や天鼓雷音如来が結ぶ。

西丸四方 フロイトとDSMと分裂病

西丸四方. 彷徨記 : 狂気を担って. 批評社, 1991.
 
西丸四方は1910年生で2002年没。著名な精神病医であり、一族と先祖には精神医学者と小説家と精神病患者がぞろぞろいる、面白い一族である。祖父が島崎藤村、曾祖父は島崎正樹で藤村の『夜明け前』の主人公で最後に発狂して私宅監置にあたる処置をされる。その人物が素晴らしい自伝を『彷徨記』として書いている。1976年に初版、1991年に少し改訂したものが多少タイトルを変えて出ている。この書物に、1930年代くらいの東京の松沢病院での病床日誌の記録の仕方について少し書いてあるので、それをまとめていた。でも、色々な部分で大声で笑いだしてしまう記述が多い本である。西丸によると、東大教授の三宅は口がうまいが早口で意想奔逸的でよく理解できず、スライドにあたる幻燈を見せてくれるのだけれども、これも速すぎて奔逸で何が何だか分からなかったとのこと。それに対して次の教授となる内村祐之は頭がよくていうことがよく分かったという。
 
それから、西丸は精神分析が大嫌いである。何かの間違いでユングを訳したけれども、精神分析は本気で危険だと思っていたらしい。ヒヤヒヤ(笑) 2つほど引用しておく。 
 
精神分析には本気で近づかないほうがいい気がしており、アメリカの精神科の医者は、みな頭がおかしいのではないかと思ったりした」 167
「[初期の] DSMなど見ていても、ややこしくて、作った人は頭が分裂しているのではないかと思ってしまう」175 
 
 

昭和戦前期の精神病院の間取りと空間の利用 

大竹昭子『間取りと妄想』(東京:亜紀書房、2017) を読んでみた。研究上の非常にいいインスピレーション。「帯」の堀江敏幸の言葉もとてもいい。「家の間取りは、心身の間取りに似ている。思わぬ通路があり、隠された部屋があり、不意に視界のひらける場所がある。空間を伸縮させるのは、身近な他者と少した時間の積み重ねだ。その時間が、ここではむしろ流れを絶つかのように、静かに点描されている。」 この刺激を利用して、まず、思いつくことを書いてメモして、図を作ってみた。以下は試行になります。
 
症例Aは 1933年の3月14日の12時に入院した。彼女自身が精神病院からの退院を非常に強く望んでいたことと深く関連して、精神病院の建築の構造と間取りに接触する生活であった。まず入院の段階で、症例Aは病院の間取りの境界部分に関与していたことが分かる。昼食は患者用のスペースではなくて「応接室」で食べ、その後は、病院から外界に外出するスペースである「警戒」を狙っていたと記されている。(1933.3.14)  また、彼女自身のふるまいの中に、基本的には不法監禁である可能性が高い監禁を、精神病院の外部に告発したいという志向が、いまだにゆるやかな形であるが、確かに感じられるので、自分自身の言葉を精神病院の窓辺で行う。たとえば「私は神様の大事な子供を生だ。その子供は今年一年に入学するだから私を帰らせてください」(1933.3.24) や「善人が栄えるか悪人が栄えるか。神様の子供はやっぱり神様だ。私の子供も神様に成る」(1933.3.25) 「入院の[必要]を認めない、自分の脳は[よく]なったと」(1933.4.14) というような、自分が精神病院に入院させられた理由を口にするときは、彼女は窓辺でそのセリフを口にしている。
 
彼女にとって窓は、抗議とわがままの双方が、おおやけの場に出ていくためのスペースであった。脳病院は、さまざまな意味で絶望的な空間であり、実家、婚家、医師、看護人たちの合意により、彼女が退院できる可能性はまずなかった。「[回診後は]ベッドに臥床、しゃがれ声を張り上げて怒鳴っている。看護婦の一人一人の短所をさもにくらしそうな表情してひろいあげ、自分を大切に取り扱わないと不平を云い、一人自室で怒鳴っていても物足りないらしく窓を開けて外に聞こえるようにする」(1933.11.8) に記されているのは、彼女にとって窓がどのような意味を持っていたのかを教えてくれる記録である。彼女を封じ込める仕組みが精神病院の建築であるとしたら、窓は、彼女の批判が外に出ていくスペースであった。
 
あるいは、性の問題も彼女の監禁と人格形成の双方にとって重要だったため、彼女は王子脳病院の間取りの中で男性患者たちの病棟と空間的に近い部分で行動し発言した。建築の図面だけで見てもどの空間なのか厳密には特定できないが、現存する記述にあてはまる部分としては、付図のAの空間部分が考えられる。これは、X年に新築された王子脳病院の病院の図面から概略を再構成したもので、男性患者が暮らす病棟と女性患者の病棟の接触が限定されていること、しかし女性患者の病棟のある部分においては、S字の中庭状の空間を隔てて、男性患者の病棟にむけて開かれていることがわかる。この空間が、男性患者と女性患者が空間的に最も近くなる場所であった。図1・図2では、当時の建築図から建物の図面の概要を示し、青く表示した男性患者のスペースと、ピンクで表示した女性患者のスペースが、窓を通じて接すると考えられる箇所に斜線を入れて表現した。
 
図1 王子脳病院病棟図        図2 男女別病棟の分離の概要 

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Aは、その空間に立って、窓から男性患者に向かってさまざまなことを呼びかけることを始める。最初の記録は、入院から2か月ほどたった1933年5月23日であり、「早朝より大声似て断片的な独語なし、男患者に色々呼掛けて、制すれば看護婦の悪口をやたらという」とある。同年6月10日には「男室の患者が大声で怒鳴れば共鳴して怒鳴っている。制すればその者を白眼視して悪口をいう」、7月10日には「多弁にして放歌あり。男患者の唄に合わせて踏んでいる」という。看護婦への批判は、「亢奮時には窓に昇って男室の方に向かって云っている」(1933.9.21)  1934年3月には、男性患者との「対話」は大がかりになる。しばらく興奮状態が続いていたが、ある日、「早朝より窓を開けて」Aは男の患者たちに呼びかける。「私を早く引き取ってください」と大声で叫んだ。他の患者や看護婦にも色情的な行為をしたという。「結婚ほどいいものはありませんよ」「皆さんも早く退院したら結婚しなさい」という。この言葉は、「窓辺によりそうて」大声で演説をするかのように語られた。(1934.3.2)  その数日後には、早朝より窓辺を開け放ち、大声にて怒鳴り、男室の方を向いて色情的な言語を発し、注意すれば、看護婦がヤキモチを焼いていると故意に声を高める」という。(1934.3.5)  

パストゥール In Our Time

www.bbc.co.uk

 

BBCの人気ラジオ番組 In Our Time ある主題を選んで、その問題について深い見識を持っている学者を3人選んで行われる鼎談。司会の Melvyn Bragg さんも上手だが、出てくる学者たちの多くが話が旨い。もちろん、常連の名人というのがいて、科学史だと Simon Schaffer 先生はいつでもうまい。しかし、それ以上に、学者一般の平均点が高いのには驚かされている。時々、昔の友人が出てきて、話がうまく合わせられなくて立ち往生したりするのも、私には深く懐かしい味わいがある。英語で授業をするときには、もちろん演説風の口調も必要だけれども、それよりもくだけた口調で分かりやすく説明する場面も必要で、私には大きなメリットになっている。

この番組は近代細菌学の創設者のひとりであるパストゥールが主人公。呼ばれた3人の学者は、医学史の世界の巨人が二人に、若手の新星が一人という豪華メンバー。そして、話の切れはもちろん鋭くて、要点がとてもよく分かる。ことに、科学史からの視点を忘れがちな私にとって面白かったのは、主人公のパストゥールの学問的な基盤の話である。彼は医者でも生物学者でもない。化学者である。化学者が、人間の病気を治すための一連の研究をするためには、何をしなければならないのか。この部分の話は、とても面白かった。もう一つ重要なことは、学問の空間である。パストゥールは研究所を作った。これは大学ではなかったが、国家からも企業からも資金を集めることができた。もちろん健康な人間は国家にとって貴重だったし、蚕がかかる病気の研究という、当時のフランスの重要な絹織物産業にかかわっていた。そこで、彼は化学とその応用を研究した。ただの応用でもなく、ただの化学でもなく、化学とその応用を研究したのである。どちらの話題も、あと少し調べて、何年後かの私の授業に取り込もう。

もう一つ、実はこの部分も大切なことなのだけれども、いま、久しぶりに感染症の歴史に関する新しいリサーチを始めている。実は、そこでも起きたことは、獣医学を学んでいた医師で、植民地朝鮮の獣医学者であった人物を主役に置いた論文を書こうとしている。このヒトと動物との間を橋渡しする領域で、ウィルスという概念が日本で形成されたという話が重要な話としてある。それを考えるときに、医学の最大の革命の一つである細菌学革命の主人公の一人が化学者であったという現象は、深い意味を持つ。

Medical Humanties vol.43(2017), no.2.

Medical Humanities の最新号である 43巻2号は、<精神医療のコミュニケーション>と題された特集号。歴史、文学、アーカイブズからの写真などの馴染み深い主題の他に、いくつもの新しい志向の論考がある。必読文献集の一つになると思う。

個人的にも読んでみたい新しい論文がある。私はまだ読んでいないが、「もし精神疾患がガンだったら?」という、非常に面白い、新しい方向への飛躍を感じさせるタイトルの論考がある。これからしばらく、精神医学の歴史の専門家ではない人たちに向かって話す機会が続くので、この論文を読んで新しいネタを仕入れておこう。

http://mh.bmj.com/content/43/2

ペンギン・カフェ 

www.erasedtapes.com

 

ペンギン・カフェ・オーケストラは、今から30年以上前、私が高校生か大学生の時に世界的に流行した「コンテンポラリー・ミュージック」。LPのレコードも何枚か持っていて、CDを買い直したりしてきた。先日、創設者の息子が「ペンギン・カフェ」という新しいバンドを作ってレコードを出したというニュースをどこかで聞いて、早速CDを買った。父親バンドとほとんど変わらない音楽で、あの時代から何が変わったのだろうと自分に問うてみたくなるCDだった。昔のCDと並べて写真を撮ってみた。

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演題募集―東アジアの植民地支配と医療(2018年3月・ピッツバーグ大学)

Call for Papers: The Intersections of Colonialism and Medicine in East Asia at the University of Pittsburgh | H-Japan | H-Net

 

2018年の3月にピッツバーグ大学で東アジアの植民地と医学についての大規模なワークショップ。カバーする主題も多様です。欧米諸国や日本の植民地となった東アジア地域の医療の歴史は、これからの成長の一つの柱ですね。