インドとイギリスの女性と医学について

DNBの「今日の人物」は19世紀末から20世紀に活躍した女性医師、メアリ・アン・デイコム・シャーリープ(旧姓バート)。1845年に生まれ、1930年に没する。ロンドンで法律を学んでいたウィリアム・メイソン・シャーリープに会い、結婚してインドに行く。そこで、インドの妊娠した女性は、ヒンドゥー教でもイスラム教でも、ヨーロッパ人の男性の医師にかかることができないことを学び、それなら女性が医者になればいいと決心して医学を学びはじめる。当初は、マドラス助産師になろうとしたが、規則が病院に女性が宿泊することを許さないため、1874年にマドラスの医学校、そしてロンドンの医学校で学び始める。それからやく10年間にわたって、イギリスとドイツで産科学を中心に学び、医師資格を取得して各地で大いに学ぶ。1880年代にインドに帰って病院の医師になった。私的開業もしており、年に2,000ポンドは稼いだというから、かなりの所得を稼ぎしたことになる。ちょっと計算すると、4000万円くらいになる。1880年代の後半にロンドンに帰り、私的・公的に活躍する。20世紀にはいるとさまざまな公的な委員会などにも入る。しかし、考え方が古臭いと人気がなくなっていたこともあるという。

インドで妊娠した女性が、産褥期などの疾病などに関して、ヨーロッパ人の男性の医者にかかることができないというルールがよくわからない。インド系の男性の医師だといいのだろうか。また、ヨーロッパ人でも女性の医師だと、sisterhood でいいということだろうか。

 

Oxford DNB: Lives of the week

ブラジルのハンセン病 雑誌特集号 

  

* Robertson, Jo. "Leprosy and the Elusive M. Leprae: Colonial and Imperial Medical Exchanges in the Nineteenth Century." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 13-40.
* Oliveira, Maria Leide Wand-del-Rey de, Carla Maria Mendes, Rachel Tebaldi Tardin, Mônica Duarte Cunha, and Angela Arruda. "Social Representation of Hansen's Disease Thirty Years after the Term 'Leprosy' Was Replaced in Brazil." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 41-48.
* Benchimol, Jaime L., and Magali Romero Sá. "Adolpho Lutz and Controversies over the Transmission of Leprosy by Mosquitoes." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 49-93.
* Monteiro, Yara Nogueira. "Prophylaxis and Exclusion: Compulsory Isolation of Hansen's Disease Patients in São Paulo." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 95-121.
* White, Cassandra. "Carville and Curupaiti: Experiences of Confinement and Community." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 123-41.
* Hunter Smith III, Thomas. "A Monument to Lazarus: The Leprosy Hospital of Rio De Janeiro." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 143-60.
* Pandya, Shubhada S. "The First International Leprosy Conference, Berlin, 1897: The Politics of Segregation." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 161-77.
* Joseph, D. George. ""Essentially Christian, Eminently Philanthropic": The Mission to Lepers in British India." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 247-75.
* Cueto, Marcos, and José Carlos de la Puente. "Vida De Leprosa: The Testimony of a Woman Living with Hansen's Disease in the Peruvian Amazon, 1947." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 337-60.


ブラジルのハンセン病の歴史の研究の論文集のアブストラクトに目を通す。本来は少し前に読むはずだったけれども、時間を取ることができなかった。読んでみると面白いし、もっと本格的に知りたいと思う。日本との対比についても、非常に面白そうである。一番面白そうなのは、最後に掲げられている、1947年のアマゾン地域の女性のハンセン病の女性にインタビューの復刻。これは、アブストラクトやイントロダクションは英語であるが、本体はスペイン語で書かれている。英訳とかないのかしら? なお、これらの論文はすべてネット上で公開されている。

http://www.scielo.br/scielo.php?script=sci_issuetoc&pid=0104-597020030004&lng=en&nrm=iso

1997年の推測だと、世界のハンセン病患者は約120万人、一年間に75万人の新患者が出る。
the central structure of a social representation has a historical determination.
ブラジルでは1970年代に呼び方が leprosy から hansen's disease となった。
ハンセン病は蚊を通じて伝染すると死ぬまで信じていた一流の学者 Lutz がいた。
1930年から45年の時期に「サンパウロ・モデル」と呼ばれる患者を全国的に隔離するシステムが完成した。1970年代にここから離脱して、患者を外来とするシステムに移行した。
1897年の第一回の国際ハンセン病会議では、西欧は植民地からハンセン病が帰ってくるというパラノイアを示した。

「異邦人が始める疫病」―19世紀のニュー・オーリンズの黄熱病

ウェルカム・コレクションで、高校生向けくらいの感じの医学史の記事があって、とても参考になる。書いてある内容も面白かったのでメモ。

1853年にニュー・オーリンズで黄熱病の大流行があった。人口は15万人程度だったが、黄熱病の流行で死者だけで1万人が出た。この流行を中心にした記事である。この流行もそうであるが、最初の患者は慈善病院に収容されて死亡したアイルランドから移民してきたばかりの男であった。アイルランドやドイツからの移民がよく黄熱病にかかり、死者の3/4はこの二国からの移民であった。死亡率でいうと、現地で生まれたものの20倍もあった。ニュー・オーリンズでは黄熱病のことを「異邦人の病気」と呼んでいた。ニュー・オーリンズや近隣の地域で生まれて育ったものは、一度は蚊に刺されて黄熱病になっているから、ある種の抵抗力を持っているが、その経験がない移民は蚊に刺されて病原体が侵入すると、すぐに重篤化する。 それに、「ラム酒を飲んだくれて喧嘩ばかりする奴ら」という記述も加わる。異邦人でろくでなし。そのような患者のステレオタイプが形成された。
1万人も死者が出た1853年の流行の重要なポイントは、この時期のニュー・オーリンズは劇的な人口の増大を経験していたことであった。1830年頃には5万人程度であった人口が、1850年には15万人程度という激増であった。その間、一度も黄熱病の流行がなく、新規の移民の感染可能者が蓄積している状況であった。この流行が甚大な被害を与えた背景には、このような状況があった。

 

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ハノイのネズミと「コブラ効果」

 

www.atlasobscura.com

 

アトラス・オプスクラの記事「ハノイにおけるネズミ抹殺大作戦」を読んで、面白い部分をメモ。 

フランスが支配していたインドシナの首都はハノイであった。素晴らしい街であったが、非常にネズミが多かった。1897年から1902年まで長官であり、1930年代にフランスの大統領にもなった政治家、ポール・ドゥメール Paul Doumer は、このネズミを一掃する計画を立てた。ここでは特に言及はされていないが、ネズミは当時アジア各地で出ていたペストの重要な原因になるからだろう。下水溝に降りてネズミを殺すベトナム人を雇い、1902年の4月からネズミを殺し始めた。雇人たちが慣れてくるにつれ、殺す数も増え、1902年の6月には一日につき一万匹以上、6月21日には2万匹を超えるネズミが殺された。それにもかかわらず、ネズミは減っているように見えない。そこでフランスの植民地の政府は方針を変え、雇人ではなく、一般の人々の参加をつのった。誰でも、ネズミ1匹につき1セントを支払われる。単価は安いし、私には価格がよくわからないが、市民参加の新しい防疫のネズミ一掃計画である。この市民参加の計画では、ネズミの死骸ではなく、殺したネズミの尻尾を持ち込んで、尻尾一本につき対価が払われる仕組みであった。もちろんたくさんの尻尾がもちこまれた。仕組みとしては、うまくいっているように見えた。

しかし、現実はフランス側の意図とは全く違う方向に進んでいた。しばらくすると、尻尾がいないネズミが見受けられるようになった。あるいは、外国からネズミが導入されて、その尻尾を切って金儲けをする人々がいることもわかった。最後には、ハノイ周辺の農村でネズミが養殖されるようになった。ネズミを養殖して増やし、ネズミ自身は殺さずに、その尻尾だけを切って役所で代価をもらう。こうすれば、ネズミの尻尾で儲けたい放題である。そのため、この計画は放棄され、人々はあきらめてネズミと一緒に暮らすようになった。このネズミが1906年のハノイでのペストに貢献した。250名ほどの死者というから、それほど大きな流行ではなく、それまで数年にわたるネズミとの闘いが貢献しているのかもしれないが、やはりハノイにネズミは住み続けたことになる。

この歴史的な史実は、実は「コブラ効果」であるという議論がある。コブラ効果というのは、インドを植民地支配したイギリス政府が出した法律で、コブラを減らすためにコブラの死体を持ち込めば対価を払う仕組みを導入したところ、人々がコブラの養殖を始めてかえって増えてしまったというエピソードである。そこで、政策立案者の意図ではなく、それと正反対のことが起きてしまう現象が、「コブラ効果」と呼ばれている。しかし、植民地インドでこの事実があったかということは明らかではないため、実際に起きたことが確かな「ネズミ効果」と呼ぶほうがいいのではないかと主張する人もいるとのこと。

 

永島剛・市川智生・飯島渉編『衛生と近代 ペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会』(東京:法政大学出版局、2017) 
Vann, Michael G. "Of Rats, Rice, and Race: The Great Hanoi Rat Massacre, an Episode in French Colonial History." French Colonial History 4 (2003): 191-203.
 

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『ワンダー・ウーマン』と20世紀中葉の女性運動と心理学

ウェルカム・コレクションの記事。20世紀中葉のコミックや映画などから非常に面白いイラストが使われている、必読水準の面白い記事。あと少し予習を入れて、一般教養の授業で使おうかとすら思っている。

 

『ワンダー・ウーマン』は1941年に連載が始まったアメリカのコミック。作者の筆名は チャールズ・モウルトン Charles Moulton で、実名は ウィリアム・モウルトン・マーステン William Moulton Marsten, 1893-1946  という。職業は心理学者で、学術的には、収縮期の血圧測定機を考えたことで有名である。これはウソ発見器に応用された。これは、彼の妻で心理学者であったエリザベス・ホロウェイ・マーステンが、興奮すると血が騒ぐというようなことを言ったことが出発点になっている。

作品の背景は社会と個人の二種類があり、マーステンが接した女性に関する社会運動と、マーステンの個人的な状況の双方が重要である。社会的には、マーステンは女性参政権の主張者のマーガレット・サンガーや、その他の女性運動者とも接触していた。その中で新しい女性たちが「力」を求めて、それに憧れていたことを理解していた。一方で、心理学的には、女性が従属 submission に喜びを見出すことも重要であった。そのため、マーステンの『ワンダー・ウーマン』は、力に満ちた女性であると同時に、鎖や首枷や縄などを用いた心理的な従属やマゾヒズムも重要な主題であった。

マーステンの家庭は、彼と親しい女性が二人住んでいたという特殊な形を取っていた。一人はもちろん妻のエリザベスだが、もう一人、タフト大学の心理学の教え子で助手でもあったオリーヴ・バーンである。バーンとマーステンは肉体関係を持ち、子供もいた。そのバーンと妻のエリザベスは、結局合意してマーステンとともに同居するようになった。マーステンの死後も、二人の女性は一緒に暮らしていた。ちなみに、バーンの外見はワンダー・ウーマンに似ており、ワンダー・ウーマンが付けている金属のブレスレットは、バーンがいつもつけていたブレスレットがモデルであるという。

 

 

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無料のお茶・無料のコーヒー・無料の薬

ただのアイデアのメモ。史実は何もないです(笑)

土居珈琲が6月のコーヒー豆セットに同封してきた文章を読んでいて、アメリカではコーヒーが無料で提供されるサービス品であった自体があったことを知る。土居珈琲の文章では、これだとコーヒーは量を重視する消費財になり、一方わが社の製品は質を重視する職人が作った作品になるという流れになるのだけれども、そこは問題にしない。ここで大切なのは、コーヒーが無料で提供されるサービス品であったという部分である。

私はアメリカにあまり行ったことがないので、アメリカの無料のコーヒーという概念がよく分からないが、そういわれてみたら、日本のファミレスなどではコーヒーやウーロン茶などが飲み放題になっている。慶應日吉の教員食堂でも、コーヒーと紅茶は飲み放題になっている。ちなみに、どちらもあまり美味しくない。和風の食堂などでは、お茶が最初に無料で提供される。江戸時代でも、それと同じように、東海道の宿や甘味処などで最初にお茶を無料で提供されていた。

それなら、それと似たような形で提供されていた無料の薬はなかったのか。もしあったとしたら、あるいはなかったとしたら、昔の薬の性格について何かを教えてくれないか。コーヒーもお茶も、薬との境界があいまいなものであった。いや、薬とコーヒーの区別がああいまいだというべきなのだろうか。