医療費の配分―医師・売薬の優勢と加持祈祷の不在

もう一つ、昭和13年木更津保健所のデータから、二つの村の医療費の構成の比較について。面白いのは、医師に支払った額、売薬などに使った額、電気と針灸、そして加持祈祷などに使った額である。8割が医師、1割5分が売薬で、費用としてはこの二つがほとんどである。加持祈祷については、二つの村で、0.8% 、0.3%の割合しか占めていない。滝野川健康調査という東京の一部の充実したデータのフルセットを使い、自分でデータを打ち込んで計算したこともあったが、そこでも同じくらいの数字である。ちなみに、東京の一部の滝野川では医師の割合が6割くらいで、どちらの村よりも少し低いのも少し驚きである。

加持祈祷については、「昔は加持祈祷も大事だった」という言葉をよく聞いている。基本は賛成した上で、私が発見した中では、費用の点で言うと、ほぼ無視していいくらい少なかったこと、しかし他の点での意味がとても大きかったという意味に採るべきだと思う。「他の点」の中身が、よく分からない。家にとって非常に重大な問題であったとか、村の公共に害を及ぼしたとか、宗教的な世界観であったからとか、そのような意味なのだろうか。

  三島村   飯野村  
戸数 216戸   328戸  
人口 1244人   1577人  
罹病者 619人 49.70% 401人 25.40%
日数 53.1日   44.8日  
医師 10,799 円 82% 9,090円 81.80%
売薬・滋養 1,966円 14.80% 1,365円 12.20%
電気・鍼灸 102円 0.70% 192円 1.70%
湯治 3円 0.10% 20円 0.20%
加持祈祷 105円 0.80% 27円 0.30%

 

 

昭和13年木更津保健所のデータから 性病

千葉県木更津保健所 事業報告 第1号 S13.7-S13.12.

健康相談と結核予防 外来、出張、保健婦結核患者訪問、結核予防
寄生ちゅう
乳幼児保険事業
花柳病、防疫、住宅調査、栄養改善、農村の医療費

結核の患者の発見、あっというまに360人の結核患者を外来と健康相談を通じて見つける。これは赤血球沈降速度検査機を用いた。644人の患者発見。3人の保健婦が231名の患者訪問を行う。

寄生中や乳幼児も行われ、家庭訪問がされる

花柳病については、業態者の徹底的な教育、予防対策、男性側の青年に対する教育。ことに、ここには海軍航空隊と憲兵分遣隊があったため、かなりの公娼と私娼がいた。まずは、公娼と私娼に教育をしなければならない。性病の種類、初期症状、予防方法である。そこは試験が大好きな日本の官僚たちが行うことだがら、教える前にもちろん簡単に彼女たちの性病に関する知識をテストする。公娼は75.1点。 私娼の酌婦と47点、45点であった。 残念なことに問題は分からない(涙)

これではいけないから、予防講話を行う。合計して9回というから、かなり充実したものだろう。そして、講話の強調点も変える。かつては、「単に病理を恐れるべきことのみに主眼」があったが、新しい講話では、具体的な予防方法を解説する。そして、来客との力関係の問題だが、それも変えるようにする。「来客に対して予防措置をむしろ指導的な立場に立って」とあるから、性病予防はお客に任せるのではなく、売春婦が方法を知り、適切なタイミングでそれを実施することになる。そのため、コンドームをサービスし、「ズプリマードパード」を行わせる(これって何だろう)。このような、知識を持ち、積極的に性病予防を行う方向に変えてから、性病予防に大きな効果があがったという。

流れとしては、性病は怖いことを知っていても、技術的に無知な売春婦に知識を教えて、性病予防の技術をマスターして、来客に対して指導的な立場となるということである。

ジークムント・フロイト博物館

www.freud-museum.at

 

ウィーンのベルクガッセ19番地にあるフロイト博物館。フロイトが居住し開業していた場所を利用した博物館である。開業は1891年から1938年までで、私が調べている王子脳病院は1901年から1945年だから、フロイトのほうが少しだけ長期にわたって開業していたことになる。これが何を意味するのかよく分かってはいないが、医療施設の性格や経営についてのヒントになると思う。

そんなことよりも重要なことは、ウィーンのフロイト博物館が、€30で通常の会員になる以外に、ジークムント・フロイト2020という形で、この施設を拡充するキャンペーンをしている。私も少額だが寄附をした。フロイトの学説が現在の精神医療に貢献するからと信じているわけではなく、重要な精神医療の診療所の史跡を保存するためである。念のために言っておきます(笑)

History of the Human Sciences のウェブ戦略

History of The Human Sciences

 

History of the Human Sciences という雑誌がある。方向としては「思想と文化」の視角で人間科学の歴史を分析するものである。私の専門の「社会」の視角からの精神医療の歴史と深くかかわっている雑誌である。ずっと論文を投稿してみたいと思いながら、まだ投稿できていない。来年中に、ぜひ投稿しよう。

h-madness で知ったのだけれども、この雑誌のサイトが非常に充実している。まだ歴史が浅い若手の雑誌だからということもあるのかもしれないが、とても魅力的なコーナーにしている。書評をすべて読むことができるコーナー、非常に丁寧な著者にインタビューするコーナーなど、とても魅力的である。医学を含めて人間科学の歴史を研究されている学者たちは、ぜひご覧ください。

 

20世紀初頭の老齢者差別

Gruman, Gerald J. editor. The "Fixed Period" Controversy : Prelude to Ageism. [S.l.]: Arno, 1979.

ウィリアム・オズラー(William Osler, 1849-1919) は、現在のカナダ出身で、19世紀末にアメリカの医学を大きく進歩させた偉大な医師である。ことに、1890年代にボルティモアのジョンス・ホプキンス大学にドイツの大学の医学部の優れた教育と研究の方法を導入して大成功させて、アメリカが医学においても大きく進歩する方向を定めた。しかし、1905年にはオクスフォード大学の欽定教授として招聘され、ホプキンスを離れることになった。その時に行ったのが The Fixed Period という表題の講演である。このタイトルは、イギリスの作家のアンソニー・トロロープが1882年に刊行したディストピア小説の表題を借りたものである。小説は私はまだ読んでいない。気がついたら、トロロープの小説はまだ一冊も読んでいない。うううむ。

意外なことに、オズラーの退職講演は、抗議の嵐を巻き起こした。ホプキンスの研究室には抗議の手紙が殺到したという。ちなみに、手紙のほとんどはオズラーに読まれないまま、秘書が処理したとのこと。抗議の理由は、ホプキンスを退職するオズラーが、退職すべき年齢に関して、「真実」を話したからである。男性は40歳を過ぎると若いころと比べると役立たずになっている、60歳を過ぎると全くの役立たずになっているという部分である。ちなみに、女性はこの時代にはもともと仕事をしないから、オズラーにとってはどうでもよくて、60歳を超えると、豪華な装身具をつけ、帽子をかぶって、肩掛けをまとっていると、同性の人々への影響力の絶頂期であるといっている。おそらくジョークだと思うけど、何がどう面白いのかはよく分からない。

 

小倉清三郎と相対会

第1組合相対会. 相対会研究報告 : 故小倉清三郎研究報告顕影会復刻. 銀座書館, 1986.
 
小倉清三郎(1882-1941)は日本の著述家と社会運動家で、初期の性科学と性の経験の著作を多く出版した。英語を学び、ハヴロック・エリスの書物などに影響される。性科学と性の経験についての多くの著作を書く。雑誌『相対』という機関誌を発行し、購読者から性の体験談を集めて刊行した。1922年に「手淫」に換えて「自慰」という言葉を考案して、それを用いることを提唱した。
 
『相対』に掲載された「相対会研究報告」という二巻本の翻刻があり、性の体験がこれでもかこれでもかと集められている。Wikipedia の記述によると、そこから現代の文庫本に収められて刊行されているものもあるらしい(私はそちらは読んでいない)。『相対』の読者は総じて教養が高い読者だったらしく、文章は達者で練られたものが多く、教養を示す引用もたくさんあり、露骨に低俗という感じはしない。一方で、これは印象論にしかなりえない話題だが、読んで春の想いがするようなエロティックなものは、ごく少ないと思う。春の想いを起こす文章を書くことは難しいということを実感する。また、読者がフィクションを書いているのか、かりに事実を書いているにしても何を選んで書いているのかというような、かなり難しい問題もある。しかし、史料の数も多いし、本気を入れて研究すると、20世紀前半の日本の性の仕掛けが色々と分かるマテリアルであることは間違いない。明日の話で軽く触れるために少しだけ参照した。

医師からの転職と出版印刷業

Kerr, Robert, and Richard B. Sher. Memoirs of the Life, Writings, and Correspondence of William Smellie. Scottish Thought and Culture, 1750-1800 / Series Editor, Richard B. Sher. Vol. . Contemporary memoirs: Thoemmes, 1996.

医者という仕事は、現代の日本をはじめ多くの国家では医師という国家資格であり、国家試験を通って初めて医師を開業できる。教育に時間とお金が掛かることもあり、医師から別の職業に転職することは比較的少ない。ただ、この部分は、もう少し色々なことを知らなければならない。まず現代の有名人としては共産党の書記長の小池晃さんが医師から政治家に転職している。江戸時代になると、総じて医療が資格性に基づいていなかった時代・地域だから、医療は他の職業と兼業されることがよくあった。本居宣長は医師としてかなりの収入があった。曲亭馬琴も薬品を作って売っていたから医療を兼業していたことになる。18世紀のイングランドでは内科医による医療の独占は廃絶されていたから、基本的には誰でも医療を行って報酬を得ることができた。ただ、江戸時代なり初期近代については、知識人や教養人が医療を行って、そんなに違和感がない。ガレニズムは当時の教養人が共有していた自然哲学から少し発展した程度だし、覚えなければならない技術的なディーテイルは少ない。

ここでメモしたいのは、印刷や出版との関係である。江戸時代の宣長や馬琴もそうであったが、18世紀から19世紀のスコットランドにおいても、印刷と医療の結びつきは特別に強い。それを示すのがウィリアム・スメリーという『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の印刷業者であり、スメリーの同業者であったロバート・カーである。スメリーについては、同姓同名で少し前のスコットランドの出身の産科医がいるが、彼とは別人である。産科医スメリーと間違えてこの本を買ったバカな医学史家もいるから心配しなくていい。スメリーはエディンバラ大学で自然哲学と医学を少しかじった程度だが、彼の知人のカーは、本格的である。エディンバラ大学で医学を学び、すぐにエディンバラの孤児病院で外科医となった。私の理解だと医療のエリートコースである。ただ、ヨーロッパの科学書を翻訳して刊行する仕事もしており、有名なところではラヴォアジエの著作やリンネの著作を英訳している。しかし、1794年に外科をやめて、工場経営者になる。その工場が紙工場で、これも印刷や出版と関係する仕事である。ただ、この工場は失敗して、貧困の中で人生を終えたという。