京都の五条天神社と大阪の道修町の少彦名神社

道修町の季刊の広報に、京都の五条天神社の石碑が読み解かれたという話があった。
 
京都の五条は医療のもともとの宗教的な拠点である。8世紀の末に空海が五条天神社として医療の神を信じたという。その時は天然痘でも麻疹でも長周期で人口が壊滅になる流行病が基礎になっているから、強力な医祖神が必要なことはわかる。五条天神社は、①少彦名神(医薬の祖神)、②大已貴命(おおなむちのみこと、大国主命)、③天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)の三つを祈り、薬草の効能を教え、諸病を救い、災いを除くことになる。
 
しかし、古代の甚大な流行病の構造から、短期間で子供が倒れる比較的な小さな死亡の近世パターンに移動するとともに、神も機能を変えてくる。安永9年(1780)に、京都から大阪に分霊が行われて、大阪の薬種仲間たちの通商を守るような機能を持つようになる。ここでは、大流行から守られるというのではない。同じ時期の京都でも、明和6年(1769)の年号が入った石碑の文字には、江戸時代の楽天的な見通しが現れる。
 
ああ、うるわしきかな少彦名の神 あまねく人々を助け
国をやすらげ民を安んずる 医薬はここにはじまる
死者をよみがえらせ 年寄りも若返り元気にさせる
恩沢は天下にあまねく その仁慈は広大である
まつりは万年億年とつづき 神の功徳は日々に新たである
 
もちろんこの時期の近世の疫病の構造は、20世紀の近代の構造と較べると、たしかに状況は良くない。しかし、古代や中世に較べると、<まつりは万年億年と続く>という楽観的なメッセージが出るように思う。ここから、それなら近世の死亡と罹患はどうかというのは、また難しい問いになるのは事実である。
 
道修町』84号2017年冬号

1930年代のマン島ー言葉を話すマングースという超常現象

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Josiffe, Christopher. Gef!  The Strange Tale of an Extra-Special Talking Mongoose.  London: Strange Attractor  Press, 2017.
 
2017年にロンドンとMIT 出版局から刊行された書物。1930年代からイギリスのマン島の孤立した屋敷に引っ越してきた夫婦と若い娘が、自分の家におかしな動物が出るようになったと主張した事実が主題になる。そのおかしな生き物は、話をすることができるマングースであり、自分から名前は「ジェフ」であると名乗る。この事例を把握させるために、ロンドンから心霊学の専門家や色々な人々を呼んで、ジェフを観察させるが、なかなか観察機会がうまく確保できない。そうこうしている間に、アフリカからの民族宗教であるヴードゥーの術師がロンドンに来て興味を示したりする。一方で、ジェフはインドやエジプトから来た宗教思想を語っている。20世紀に世界の各地の植民地の知識がやってくる。一方で、イギリスのマン島も、地方としては僻地であり、マンクス語という方言を持っている。そこが不思議な力を持つ動物が力をもつ昔話もあり、そこにロマン主義的な思いの色も重ねられる。当時の世界とイギリスの文化が複雑な構造を持って、その中で家族、隣人、専門家、心霊術者、外国人を引きつける多様な行動を行うようになった。
 
色々な関心事があるので、読みたい人は自分が好きな主題の記述を拾い上げるであろう。イギリスの歴史学者が、ロンドン大学ケンブリッジ大学の資料を一つの出発点に、長い迷信や魔術に関する資料がもう一つの出発点になり、素晴らしい記述になっている。その中で、家族の父、母、娘が、どのような世界を作ろうとしたかが、重要なフレームワークである。ドメスティックなフレームワークに付加されるのに、近隣の人は見受けられていない。家族が住んだのは、もともとは立派なやしきだったのだろうが、当時は壊れそうな状況で、孤立した地域で農業を何かしら行っていた。そして、ロンドンや世界で活躍する人々が重要である。
 
ジェフの写真はほとんど残っていない。毛を送って検査を依頼された科学者は、マングースやイタチの獣毛ではなく、イヌの獣毛だと科学的に正しいことを書いている。その獣毛も現在は保存されている。
 
「人間の言語を話すマングースがいるなんて、そんなバカなデタラメを言うわけないだろう」という夫の言葉。悪人列伝の19世紀のロンドンで作られたそんな馬鹿げた仕掛けは意味ないでしょう、と言うセリフと通じている。

エコノミスト・エスプレッソ 2018/02/03

エコノミストエスプレッソは、日曜を除く毎朝配管され、土曜日には娯楽関連の記事である。一番熱心に読む記事だし、今日の記事は、一番私の記事に合う企画であった。

 

地球と月を結ぶロケットが、ビジネス界で登場すること
フランスシェフの栄光と並ぶ緊張の側面
ロンドン博物館の Fatberg の展示で、現代文明のゴミを見せる企画
同じロンドンの Fashion and Textile 博物館で Tシャツの歴史の展示
アメリカンフットボウルの<スーパーボウル>は52回目

 

 

 

 

『精神医学の哲学2 精神医学の歴史と人類学』の書評が刊行されました

住田君は、東京大学出版会科学史関連を担当し、慶応大学でSTSの領域の講師も務めておられる新しい領域を活躍させる学者です。その住田君からお報せで、北中先生と私が共編の『精神医学の哲学2 精神医学の歴史と人類学』(2016) の新しい書評のニュースです。 『科学史研究』に掲載されました(添付)。


https://www.amazon.co.jp/dp/B0788WV24Q/

お書きくださったのは、昨年2月のワークショップでコメントをくださった廣川和花先生です。
http://www.flet.keio.ac.jp/events/2017/2/26/64-19514/index.html

ぜひご覧くださいませ。

 

<信濃町往来>と実験動物のパノプティコン

 
2017年12月9日から2018年3月31日まで、慶應義塾大学にて建築写真展と貴重書の展示が開催されている。貴重書は医学部図書館(北里記念医学図書館)の一階ロビーと二階ホワイエ。一階では医学部が所蔵する解体新書と杉田玄白関連の貴重書と手稿が数点、二階では1923年から1963年までの卒業アルバムが合計6点展示され、慶應医学部のキャンパスの様子のページがわかるようになっている。また、山村耕花《腑分》(1927)も展示されている。解剖の作業がかなり進行して、散乱の二歩手前くらいまでの状態になっている死体があり、その向こうで外国人から日本人が解剖を学ぶ様子が描かれているのだろうと思う。その外国人はシーボルトだろうか。
 
卒業アルバムも私には興味深かった。1945年5月の東京大空襲の前の慶應医学部を頭に描こうとしたが、今の信濃町の駅に向かった部分に入口がある構造とは少し違っているのだろうと思う。どこに何があるのか、私にはよく分からなかった。現存している建物は二つ。一つが医学部図書館、もう一つが予防医学校舎である。ちなみに、後者はロックフェラー財団の寄附を受けたとのことで、建築の外側も内側も趣が深い優れたものであった。最上階に宮島幹之助の胸像が置いてあった。
 
一番充実した展示は<信濃町往来>という、慶應の医学部の建物などの写真展である。これをやっている場所は、 総合医科学研究棟(エントランスおよびラウンジ)という、できたばかりで私たちにはまだなじみがない建物である。信濃町の駅を降りて、北里記念医学図書館、予防医学校舎と通ったあたりにある道の向かい側の新築の建物である。エントランスのガラスのパネルに巨大な写真がたくさん張ってあるのでわかると思う。それに足して、サロンでも展示されており、こちらは小さな写真がたくさん張られている。それらの写真の説明などが書いてある充実した小冊子は、サロンに置いてある。よく分からない場合には、医学図書館の受けつけで写真展のパンフレットがないかと聞くと、いただくことができました(笑) 図書館員が<そのパンフレットを本当にたくさんもらってしまったので>と困惑した表情で語っておられたので、もしかしたら、喜ばれるかもしれない。
 
写真はおそらく写真を本格的に学んだ方が撮られたもので、記念写真的なものではなく、大学医学部の様子を鋭く切り取るものが多い。印象的なことは、医学の進歩が取り残した施設である。慶應医学部は同一の場所で100年間継続したので、作られた当時は先端的だったが、次第に使わなくなった施設というのが出てくる。建物としては、図書館と予防医学で、大部分が取り壊されてしまったらしいが、その取り壊す前に撮影した写真である。ある写真は、廃墟と化した講義の教室のようになっている。特に面白かったのが実験動物を飼う犬舎であった。円形の建物で犬の収容檻が中心に向かって扉が開くという不思議な構造で、実験動物のパノプティコンのようなありさまが呈している。この実験棟物や犬を収容するパノプティコン状の建物に収容する建物は、戦前には建てられており、きっと生理学教授の林髞(はやし たかし)が、パブロフのものから学んで導入したのだろうかなどと想像している。林は、木々高太郎(きぎ たかたろう)の筆名で推理小説を数多く書いており、医学的な主題もよく盛り込まれている。パノプティコン型の犬舎の写真もみつかって、林が書いたものはたくさんあり、推理小説もあるということで、論文の主題に最適ですよ。みなさん、そのような論文をお書きなさいませ(笑)
 
 
 

ひらりねこ大人気(笑)

昨日、フェイスブックのカバー写真に家で飼っている「ひらりねこ」の映像をアップしたら、いつもの医学史関連の記事とは全く桁が違うペースで《いいね》がつき、コメントまで頂いた。ひらりねこ大人気である。3年ほど前に書いた「ひらりねこ救出事件(笑)」という記事も人気だったので、まだ読んでいない方は、どうぞお読みください。少しだけ字句の訂正をしました。

 

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ひらりねこ救出事件(笑)

昨日おきた「ひらりねこ救出事件」について。医学史とはまったく無関係な無駄話ですので、どうぞ読み捨ててくださいませ。

家ではネコ一匹と暮らしている。名前は「ヒラリー」といい、2008年の6月ごろにまだ若いネコが一匹庭にやってきて、お腹が空いたからご飯をくださいという感じでにゃあと鳴いたのが出会いである。ちょうどそのころ、アメリカで民主党の大統領候補を決める一連の選挙が行われていて、ヒラリー・クリントンオバマに敗北したことを認める宣言を出した翌日だったので「ヒラリー」と名付けた。野良猫という感じは一切せず、人間に慣れている感じがしたし、後に動物病院で聞いたら不妊手術がしてあるということなので、どなたかと一緒に何らかの形で暮らしていたのだと思う。

最初は私たちの家族に親愛の情は示しながらも、一定の距離を取って家の近くで暮らしていた。家の周りでご飯を食べたり、時々家の中に入ってきてソファで寝たりということはしていたけれども、家の中で一緒に暮らすようになるには2年ほどかかったし、膝の上に乗るようになるには5年ほどかかった。今では夜は毎晩一緒に寝ている。私たちにとって大切なネコである。

そのヒラリーが、今週の初めに二晩帰ってこなかった。昼は外にいることが多いが、夜は必ず帰ってくるので、とても珍しいことである。私たちはとても心配した。特に帰ってこなかった二晩目は台風の夜で、どこかで困っていないかと心配していた。

昨日の夕方、家の周りを探してみることにした。探すと言っても、「ヒラリー」とか「ひらりねこ」と名前を呼びながら歩き回ることしかできない。家の周りは田舎なので農家が耕運機のような作業機械などを入れておく小屋がところどころに立っていて、その中に閉じ込められたのかもしれないと思って、小屋の前では小屋の中に向かって呼びかけたりしていた。

その中の一つの小屋に「ひらりねこ」と呼びかけたところ、返事があった。私たちがずっと待っていたヒラリーの声だった。ヒラリーもずっと待っていたのだろう。懸命に私たちに鳴きかけた。私たちも懸命にもう大丈夫だとヒラリーに話しかけた。小屋のご近所の方に事情を説明してどなたの小屋かお伺いして、そのお宅に案内してもらってまた事情を説明して、みなで一緒に小屋に向かってその扉を開けていただいた。最初は不安だったヒラリーもすぐに出てきて、私たちと一緒に田んぼの中の道を歩いて家に帰った。猫とその家族が幸せそうにしていて、ご近所の方と小屋の持ち主の方も微笑んでおられた。ご夕食の時間に親切にしていただいて、本当にありがとうございます。

家に帰ったヒラリーは最初は落ち付かなかったけれども、すぐに落ち付いていつも通りのヒラリーになった。私たちもすぐに落ち付いて、平和な気持ちになった。この週末には時間をみつけてケーキか何かを焼いて、お世話になった方々にお礼を申し上げに行こうと思っている。