<ジークムント・フロイト博物館>のプレゼント、そして「このドイツ語はなんと書いてあるのですか?」(笑)

https://www.freud-museum.at/en/

https://www.freud.org.uk/

オーストリアの精神病医で精神分析を提唱したジークムント・フロイトを記念した博物館は2つ知っている。一つはウィーンで居住し診療していたベルクカッセ19番地に再建された「ジクムント・フロイト博物館」であり、もう一つは最晩年のx年にナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れてロンドンに住んだ時の屋敷を利用した「フロイト博物館」である。ロンドンのフロイト博物館はさまざまな企画を行う楽しいところであるが、ウィーンのジクムント・フロイト博物館は、先日の寄付のお願いの時に初めて知った。会員になることもできるようになって、めでたく会員となった。35ユーロというから、5,000円くらいの寄付である。
 
そこが入会記念のマテリアルを送ってきた。フロイトが作家のシュニッツラーに送った手紙の複写と英訳である。シュニッツラーは私が大学一年の秋学期のドイツ語の授業で高辻先生に習って初めて知った作家である。読んだ作品は Ein Abschied という短編で、奥が深い文学を教えられた思い出の作品である。安っぽい教育法では絶対に思い浮かばない作品でもある。その作家にフロイトが書いた手紙の複写ということで、喜んで読もうとしてみた。これが全く読めない。手紙の末尾の署名は Freud であるが、手紙の冒頭に置く宛名が読めない。英訳では Dear Dr Schinitzler となっている。シュニッツラーがフロイトの先輩でウィーン大で学んで医師の資格を取り実際に仕事をしたことが関係あるのだろうか。それをドイツ語にすると、私が知ってそうな単語があるはずだし、人名は読みやすいはずである。ところがそれが読み取れない。
 
皆様の中でドイツ語の手稿が読める方、たくさんいらっしゃると思います。読める方、教えてくだされば。
 

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協力者の応募:日本の医学・アート・民間宗教におけるイメージのデータベース

Call for Collaborators: Imagining and Developing Images of the Body in Medicine, Art, and Folk Religion | H-Japan | H-Net

 

日文研をベースにした企画。日本の医学、アート、民間宗教に関するイメージを議論して論文集などを作成するとのこと。ぜひご参加ください!

 

 

がん生存率の国際比較

医学書院/週刊医学界新聞(第3269号 2018年04月16日)

『週刊医学界新聞』3269号の記事より。2018年の3月に Lancet に発表されたCONCORD-3という大規模な国際比較のがん患者生存調査に関して。がん患者の生存率に関しては、1950年代のノルウェーの調査、1970年代のアメリカの調査があるが、国際比較が可能になったのは1980年代のEUの調査であり、これが CONCORD である。2008年に発表された、190万症例を用いたもの。イギリスのがん生存率が他の国と比べて非常に低いので、1990年代の首相のトニー・ブレアが熱心に進めたとのこと。このCONCORDが、第3回にあたる CONCORD-3 となって発表された。
 
私は20世紀の後半はよく知らない歴史学者であるし、最近のがんのデータを見たことがないこともあって、表がよくわからない。雑然とした印象では、日本のパフォーマンスは国際的に言って優れており、他の国よりいいものが多い。一方イギリスとアメリカについては、悪いものが多い。
 
画像はこの記事からいただいた。もとは Lancet に掲載されているものを少し変化させたとのこと。
 

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中世ヨーロッパのハンセン病隔離とケアの意味

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Brenner, E. (2015). Leprosy and charity in medieval Rouen: Royal Historical Society.

 

中世のヨーロッパにおけるハンセン病者は二つの両極的な側面を持っていた。隔離・他者化と介護・慈善の対象という二つの側面である。私が医学史を勉強し始めたときには、隔離・他者化の意見がまだ力が強かったし、もちろんそのような考えを強調する史実はいくつか鮮明なものがある。14世紀にユダヤ人やイスラム教徒と一緒にされて殺されたという事件は著名なものである。その一方で、全体でみるとケアと慈善のほうが強いという意見もあり、それに関する史実もある。私は1500年くらいのニュールンベルクの慈善を示すパンフレットを使うことが多かった。中世のかなり派手な慈善の対象としてのハンセン病者がよくわかる。

2015年に刊行されたブレナー先生の書物を見ると、冒頭で街から追放されたハンセン病者が居住した施設が、非常に頻繁に修道院の位置と重なっていたことがわかる。修道院が形成する空間と、ハンセン病者を介護する施設が一致していたという議論である。この図版は使うことにしよう。

佐藤元状『グレアム・グリーン ある映画的人生』

これもしばらく前ですが、佐藤元状先生に、ご単著の『グレアム・グリーン ある映画的人生』をいただきました。小説と映画という二つの方法の交錯を考えている書物。私は医学史ですが、写真、映像、症例などのさまざまな方法の作用を考えるようになりました。恂にありがとうございます。

 

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北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書』

しばらく前のことでしたが、日吉の研究室で、北村紗衣先生から最初のご単著をいただきました。『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書』です。優れた英文学者たちからは、いつも多くを学ばせてもらいました。何か大切な時に、インスピレーションを求めて開かせていただきます。ありがとうございました!

 

 

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イギリスにおける医学史の発展について

私がイギリスに留学している1989年から1996年という期間は、イギリスにおける医学史研究が非常に急速な発展をした時期であった。1970年代に始まり、現在でも発展が新しい方向に展開している。1970年代には、イギリスの医学史研究はアメリカやドイツよりもずっと弱く、新興国の特徴があったのかもしれない。そのように弱体の医学史研究を、一流国の医学史にあっという間にしようという態度があり、これは複雑な意味があるが、たしかに面白い。私がしたその経験を『近代日本研究』という雑誌に研究ノートで書かせていただいた。そこでは用いなかった事例だが、その変化の一部の事例が自分の本棚にあり、そこもちょっとまとめておく。
 
話題はウェルカム医学史研究所が行っている展覧会である。たまたま、そのカタログが、1986年のものと1997年のものがあった。この10年という間隔は、両者を大きく変えている。1986年は表紙がオレンジなだけで、あとは白黒のパンフレット。1997年は表紙も中身もオールカラーである。図表についても、1986年のものは、一枚だけ白黒のイラストがはさまれている。これは L.A. Waddell という19世紀末の医者で、インドで西欧医学を学び、インドやチベットの事象に魅せられた人物がスケッチした「生命の循環」である。スケッチされたのは20世紀、もともとはある修道院にある8世紀の画像、それはさらに2世紀から6世紀のインドのアジャンタ遺跡にさかのぼれるとのこと。素晴らしい図である。しかし、1997年のものは、大きなカラー図版が10点以上も織り込まれている。図版は15世紀から20世紀で、死を社会文化の脈絡の中においたものである。たしかに、10年前のパンフよりずっと豪華になった。それもカラー図版をたくさん用いたのは確かに感心する。しかし、このような発展が、現在では、以下のウェブサイトで展開されている、さらにゴージャスで多くの言説があるものになっているということだと思う。
 
 

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