環境思想の歴史

環境科学の思想史の草分け的な研究書を読む。
 エコロジーの思想史について、できるだけ広い範囲をカバーした書物を読みたいと思っていた。(科学史を教わった人間の習慣で、「古代ギリシアから20世紀まで」の教科書を読まないと、何か落ち着かないので・・・)古代ギリシアからではないが、ベーコンからレイチェル・カーソンまで。ギルバート・ホワイト(『セルボーンの自然誌』)、リンネ、ソロー、ダーウィン、クレメンツといった環境科学の思想史・文化史の大物を選び、それぞれ掘り下げて読み応えがある分析をしながら、歴史の大きな流れが分かるようになっている。古き良き時代の科学思想史の王道的な記述の仕方。
 18-19世紀のそれまでの科学思想史の研究の蓄積がある部分は、古典的な概念装置を使って書かれている。著者が「牧歌的」と呼ぶ異教的な自然の見方があって、一方に自然を資源として功利的に捉えながら神の静的な秩序を前提にするキリスト教的な見方があって、両者のせめぎあいでホワイトやリンネを記述する。ソローはロマン主義の文脈で、ダーウィンはマルサスの文脈で記述されている。古いかもしれないが、達者な分析である。20世紀のアメリカでは、フロンティアの収奪的な見方が否定されていく過程が描かれている。私がこの領域に無知なせいもあるだろうが、面白かったし、分析には深みがあるように思う。
 この書物を読むまで私が全く知らなかった人物だが、ベルギー生まれで、1751年からノリッジでルター派の牧師をしていたジョン・ブルックナーがとても面白いことを書いていた。熱帯地方の生命の横溢という印象から導かれて(彼は外国を旅行したことがあったのだろうか? Oxford DNBには何も書いていないけれども)、自然界にほとばしるエネルギー間の闘争のようなことを考えている。
 クレメンツなどを扱ったところで、自然そのものは平衡を保つが、それが人間の無思慮な介入によって乱され、人間はしっぺ返しを食う、という枠組みの成立が分析されていた。私も含めて、20世紀後半の病気の歴史家たちは、流行病を人間の活動の結果であるとする議論に目が行きがちである。ル=ロワ=ラデュリは黒死病をヨーロッパの北への発展に関連付け、帝国医療の研究者は低開発地域の病気を開発原病だと論じる議論を「面白い」という。個々の議論はもちろん正しいのだろう。しかし、その手の議論を聞いて私たちが「面白い」と思うのは、人間 / 西洋 / 文明 以前の疾病のエコシステムを美化しているせいだろうな、と思った。たまたま、今日読んだガーディアンで、オランダのウィルス学者が鳥インフルエンザについて、面白いことを言っていた。「最強のバイオテロリストは[ 生物兵器の開発者ではなく] 自然そのものである」。これを、科学者はいまだに自然を支配する対象として見ていることの証左だ、というのはたやすい。しかし、角度を考えると、環境史・疾病史を研究して学際性を謳っている歴史家たちは、疾病の証拠の不在を、不在の証拠だと思いこみ、ロマンティックな自然観から出発して、「二つの文化」を再生産しているのかもしれない。そんなことを考えて、反省した。

文献は ドナルド・オースター『ネイチャーズ・エコノミー』中山茂他訳(東京:リブロポート、1989)