現代医療史研究とアメリカン・フレイムワーク

広井良典さんの『遺伝子の技術、遺伝子の思想』を読む。

 「物語ることをめぐる異種格闘技」のシンポジアムが土曜日に終わった。 色々な事情があって、結局雑駁な話になってしまった。話の前半は、「医学や臨床系の実践で、これから<ナラティヴ>は一つの柱になるから、英文学者としては今が打って出るべき時だ!」という(無責任な)アジテーションをした。余り深く考えた戦略というわけではないけれども、もしかしたら当たっているかもしれない。 

 今日は、久しぶりに、目の前の仕事に直結しない本を何冊か読む、という贅沢なことをした。その中の一冊が、『遺伝子の技術、遺伝子の思想』である。残念ながらお会いしたことがないが、私は(私だけではないと思うが)広井さんの著作のファンである。 シンプルで整然とした理論的枠組み、広い視点、わかりやすい語り口、そして政策に関する提言。新書版のお手本のような書物を何冊も読んだ。教科書や参考書にもよく使わせていただいている。今回の書物も、安心して読み、多くを学ぶことができた。
 この書物で気になったことを一つ。アメリカの遺伝子研究や医療政策や医療倫理などをめぐる歴史の流れについては、細かい史実が整然と整理されて構造化された記述がされているのに対し、日本については「アメリカで起きたようなことは起きていない」という否定的な言明が主たる史実になっている。あるいは医療の質のアセスメントなどについても、日本では「それにあたるものは起きていない」ということ以上の史実は語られていない。このあたり、この書物が書かれた10年前の時点ではほとんど研究が進んでいなかったところなのだろう。最近はSTS研究も盛んになってきたし、状況は良くなって色々なことが分かっているのだろうか。それとも「星条旗が翻っているか・いないか」というヒストリオグラフィが、政策派にも反科学派にも採用されている状況が、今でも続いているのだろうか。 このあいだ、北村健太郎さんという、(おそらく)若手の研究者のとても面白い論文を読んだけれども、具体的な史実を調べることから新しい枠組みを探るという歴史研究の王道にかなった試みが積み上げられているんだろう、と想像している。 

書物は、広井良典『遺伝子の技術、遺伝子の思想』(中公新書、1996) 言及した論文は、北村健太郎「『錆びた炎』問題の論点とその今日的意義」Core Ethics, 1(2005), 1-13.