ロシアの細菌学

ロシアの初期細菌学についての論文を読む。

 最近、いやにロシアのことをブログに書いている気がする。まるでロシアの医療の歴史の研究者のようだけど、そういうわけではない。日本の医療とか、疾病の状況を研究する時に、開国の昔から常に、世界の一流国と較べられてきた。開化主義者は、欧米列強と較べて日本は遅れていると嘆き、軍国主義者は、こんなに結核死亡率が高くては日米決戦には勝利できないと叫び、進歩的左翼は、日本の福祉医療の遅れを糾弾してきた。その際に、較べられているのは常に、イギリス、アメリカ、ドイツといった欧米の中でも先進国であった。その比較の対象というか、枠組みというか、そういった国と比較して日本の医療なり疾病構造なりを云々することが、歴史的に意味があるのだろうか、という疑問を最近持っている。たとえを使わせてもらうと、コンサドーレ札幌(いま、学会で札幌に来ているので・・・)の戦力を分析するのに、レアル・マドリードと較べても、見落とされる部分が多すぎるのではないだろうか、ということである。差別的な言い方になるかもしれないが、同じ「リーグ」の国と較べてはじめて見えてくる特徴があるのではないだろうか。 それで、ロシアとか東欧や南欧、中南米のことを見なければいけないなと思っている。そういう脈絡でのロシアである。
 
 それで、やはりロシアは面白い。この論文の中心は、ロシアの中央の先進的な細菌学研究と、地方レヴェルの医者による保健活動がうまくかみあわなかった理由の分析である。まず、メチニコフの個人的事情がある。オデッサで研究所を作ってパスツールにならって狂犬病のワクチンを作って前途洋洋だったが、彼の個人的な事情のため、ペテルスブルクに新しくできる研究所に移れなかったこと。そして、1887年にモスクワで開かれた学会で、それまでの衛生学はすべて細菌学にとって代わられるべし、というような倣岸な物言いをして、既存の衛生学者を敵に回した。ここで、衛生学と細菌学が合体するチャンスが失われてしまったという。さらに、ペテルズブルグに作られたいくつかの研究所(そのうちの一つにはパブロフがいた)は、純粋理論的な研究に向かい、地方の衛生医たちとの接触がなかった。その後メチニコフはパリに去るが、その空白は1890年代に、何人かの細菌学者によって埋められる。この時の細菌学は、メチニコフのそれとは違って、衛生学にとって代わるものではなく、病理学と治療学の分野で、衛生学を補完するようなものとして構想されたので、細菌学はいったんロシアに着床する。しかし、その後の細菌学の順調な発展を妨げたのは、1890年代の後半のペストの危機への対応のまずさであったという。1890年代の後半から1900年代の初頭にかけて、防疫活動が完全に警察官僚の手に落ち、治安維持のみを目的にして医者たちを排除したような衛生政策が取られたという。そして、そのように医者たちを排除したまま1905年の革命を迎える、という流れが描かれている。
 このロシアの経験には、日本の細菌学の定着期を考えるのに、いくつものヒントが含まれていると思う。「それに較べて日本の細菌学の社会化はうまくいった」という評価の基準としてではなく、中央と地方、衛生学と細菌学、警察と医学などの構造線が、もう一つの「後発国」ではどうだったかのかということを知ることで、日本の事情を改めて考えることができる。コレラが日本では衛生学の母だったとしたら、ロシアのペストは細菌学的衛生を破壊した、ということかもしれない。

文献は  Hutchinson, John F., “Tsarist Russia and the Bacteriological Revolution”, The Journal of the History of Medicine and Allied Sciences, 40(1985), 420-439.