ポストモダン地理学


研究会の準備のために借りてきた本の柱の中にあった David Harvey の本を何冊か読んだ。翻訳で『ポストモダニティの条件』、特に空間の時間の経験を扱った第三節、それから Justice, Nature and the Geography of Difference (1996) を読む。
 今回の準備をして、色々な収穫があった。昨日触れたフーコーの有名な論文を読めたのもその一つだが、もう一つは「ポストモダン地理学」とでも言うべき、隆盛を極めている地理学の一分野があることを知ったということである。その傾向の地理学者が集う雑誌があり、ラウトレッジ、マクミラン、カリフォルニア大学出版局などは、こういった傾向の書物を出版するシリーズまで持っている。(きっと医学史という学問も、はたから見ると「そんな酔狂な学問をする人がいるんだ」と思われているのかと思うと、なんとなく親近感を覚える。)私のようなタイプの研究者にとっては、ポストモダン社会学系の書物というのは、純粋な医学系の学者が書いた論文と同じで、若干付き合いにくいが、<時として>大きなインスピレーションを与えてくれるものであることが多い。
ハーヴェイは、おそらくその流れの中で、最も有名で多作、そして鋭利な洞察を持っている地理出身の社会理論家であろう。資本主義、フーコー型規律社会、大衆消費社会などがそれぞれ生成した新しい時空間構造などが、博覧強記に論じられていていて、読んでいて楽しい。その中で、やはり私の関心にひきつけて面白かったのは、フーコー・エリアスと絡めて、個人と装置、実践と制度、社会生活と構造といった、二元論的な根本対立を生成する空間という話である。人は、身体を中心にして発する意味の外向けのベクトルを持ち、世界から身体に貫通してくる中向けのコレスポンデンスのようなものを持っているが、そういった「オーラ」を個人の身体から切り離し、個人を孤立させて成立させる建築的・都市計画的な装置がある、という話である。
病原体でもミアズマでもいいけれど、身体から発されるベクトルと、身体の中に入ってくるベクトルの流れの制御。これをどの空間的水準で(検疫なのか、下水道か、母親が消毒するか、それともワクチンか)制御するかという問題を立てられることは気づいていた。しかし、その問題は、個人の裁量を認めた自由な空間をどこまで許すか、ひいては、どのような空間的な裏打ちを持つ制度の中で社会生活を営ませるかという問題であるというのは、ちょっと思いつかなかった。

文献は デイヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』吉原直樹訳(東京:青木書房、1999) 英語の本は、Harvey, David, Justice, Nature and the Geography of Difference (Oxford: Blackwell Publications, 1996).

画像は17世紀の古地図