ナポリのコレラとその隠蔽


 ナポリのコレラについての本を読む。アメリカのイタリア史の研究者による、病気の社会史のお手本のような、達者な研究書だった。これまでの研究書を意識して書かれているところもいい。

 1884年と1910-11年にナポリのコレラの大きな流行があった。前者では約7000人の死者が出た。後者の死者数は「不明」である。耳を疑うような話だが、1911年のナポリにおけるコレラの流行は、イタリア国民にも国際社会にも隠蔽されていた。イギリスの『ランセット』や、イタリアからの移民が到着するニューヨークの新聞は、感づいていた。イタリアの新聞でも気づいていた新聞はあったし、コレラ暴動を報道したものもあったが、コレラの流行そのものは公にならなかった。アメリカ政府にも、イタリアは偽の情報を渡していた。コレラの流行は、近代の流行病の中で、一番派手で目立つものである。気がつかないことは難しいし、隠すことはもっと難しい。しかし、逆に、派手だからこそ人々に注目され、政治的に巨大な意味合いを持つようになるからこそ、これを隠す政治的な必要も出てくる。

 ナポリは1884年にツーロンから追放されたイタリア移民が持ち込んだコレラ流行で大被害を受けた。そのコレラ流行の死者の半分がナポリに集中していた。イタリア統一後の近代化に取り残された南のナポリでは、貧困はむしろ進行し水道や下水などが整備されないまま衛生状態は悪化していた。特に、低地の旧市街には貧民が住む劣悪な住居地帯が広がり、これらの地域では大きな被害が出た。イタリアの中で貧しい都市であったナポリが被害を受け、ナポリの中の貧困者が住む地域で被害が広がるという、二重の相関が貧困とコレラの被害の関係を際出たせた。コレラの被害が「人災」であったことが突きつけられた。カトリック教会は、コレラを神の怒りだと解釈し、ここぞとばかりにリベラルな権力を批判した。軍隊を出動させて検疫封鎖を行うという当時のヨーロッパには珍しかった強権の発動は完全に裏目に出て、民衆の激しい抵抗と暴動を呼んだ。つまり、コレラの流行は、当時の権力の危機を招いたのである。その後に国家とナポリ市が、ペッテンコーファーの思想を移植して行った都市整備は、国家権力と都市権力の威信をかけた事業であった。ナポリをコレラから守ることに、権力の正当性が懸かっていたのである。その状況で、1911年に再度ナポリがコレラに蹂躙されたことを認めるわけにいかなかった。追い詰められた当時のイタリア政府は、1911年のナポリのコレラを隠蔽するという暴挙に出たのである。

 国際的な文献を踏まえた洞察満載の研究書である。現在の英米のシニアーな研究者には、必ずしも議論の本筋とは関係ない記述を詰め込んだ厚い本を書く贅沢が許されているが、そういった部分も達者な腕で書かれていて、読んで楽しくためになる。

文献は Snowden, Frank M., Naples in the Time of Cholera 1884-1911 (Cambridge: Cambridge University Press, 1995).