メランコリー論の古典



 週末の学会や色々な仕事や大失態が重なって、1週間ほどブログの更新が滞りました。

 メランコリー論というだけでなく、近代思想史・文化史の名著中の名著、クリバンスキーらの『土星とメランコリー論』を読み返す。文献は、Klibansky, Raymond, Erwin Panofsky and Fritz Saxl, Saturn and Melancholy: Studies in the History of Natural Philosophy, Religion and Art (1964) 田中英道他訳『土星とメランコリー 自然哲学、宗教、芸術の歴史における研究』(東京:晶文社、1991)

 クリバンスキーらの Saturn and Melancholy は、私にとって(私だけではないと思うけど)古典中の古典である。授業の準備で読むたびに、途方もない博学と分析の深さにため息をつく。そして、新しい発見がある。アリストテレス派の『問題集』における黒胆汁論と、占星術の中での土星論が持っている、両義性を抱え込んだ天才論が、ルネッサンスで復興されたという議論の大筋は誰もが知っているだろうから、今回は私にとっての新しい発見を書く。専門家から見たら、そんなことにも気がつかないで授業で紹介していたのかと呆れられそうな基本的な発見だけど・・・

 翻訳で言うと231ページくらいから、短いペトラルカ論が始まる。「おそらく、自分が天才であることを知っていた最初の人間類型に属するペトラルカは、精神の高揚と絶望の鋭い落差をみずから経験していた」とクリバンスキーらは言う。ペトラルカは自らの詩的恍惚を悦ばしげに書き、一方で空虚な憂鬱と鈍い苦しみを知り尽くしていた。クリバンスキーらは、この事態を「ペトラルカが<メランコリー>という語を用いる以前にメランコリアを感じていたこと、<心的狂気>という正統の観念が復活させられる以前に、自らの詩作に<神的>で<狂気>の性格があることに気づいていたこと>であるという。ここからクリバンスキーらは、メランコリアと天才の結びつきというのは、<その概念が定式化される前に、ペトラルカにとっては現実の経験であった>と判断する。

 クリバンスキーらの書物はいわゆる「観念史」の代表作であり、思想家たちが語った観念や概念を中心的に問題にしているというのが、教科書的な理解である。しかし、彼らはここでは、メランコリーの経験が、その概念に先駆けていたという指摘をしている。「メランコリー概念なきメランコリー経験」が可能だった、ということである。ぎくっとしながら、その後の長いフィツィーノ論を読むと、確かに経験をベースにして概念が築かれるというようなことを言っている。この本が観念史の本であることは間違いないが、経験の歴史という系列を前提にしていたということは、私にとっては新しい発見だった。