精神病と芸術的創造性

 大きな精神病のエピソードを経験した文人の回想記を読む。文献はSymons, Arthur, Confessions: A Study in Pathology (New York: Haskell House Publishers Ltd., 1972). このテキストの存在は、Yahoo! ブログのhitomidoniine さんのエントリーで教えてもらった。

 精神病患者が書き残した記録や自伝というのは、精神医療の歴史の中でも、最も魅力があると同時に最も扱いが難しいジャンルの資料である。この手の記録を使った研究の概論で一番優れているのは故ロイ・ポーターの『狂気の社会史』で、そこにはいくつものヒントがちりばめられている。

 シモンズは、1890年代に評論家・詩人としてロンドンの文学シーンの中心にいた人物であったが、1908年にイタリアのフェラーラで精神病の大きなエピソードを経験する。(ウェブ上のある記述にはボローニャとあったが、ここではとりあえずテキストに従っておく。)フェラーラの市内のホテルに投宿した彼は、翌日からひたすら歩き回る。市街を出て農村地帯へと。人々の好奇の目を避けるように、彼は幾夜も放浪する。積みわらで寝たり、農家で食事と宿を乞うたり。数日後、市内に帰ってカフェで休んでいるとき、二人の(おそらく)警察官がやってきて、彼は牢獄に連行され手荒く扱われるが、彼の失踪の連絡を受けていた知人のイタリア大使の尽力で救出され、そしてボローニャ近郊の精神病院へ移される。イギリスに帰ると、一年ほどを二つの精神病院で過ごし、1909年には退院している。

 精神病院の入院中に彼が苦しんだ不眠の描写は鬼気迫るものがある。子供時代の恐ろしい夢の記述は傑作だと思う。その一方で、病気にかかった自分の精神状態についての記述はあまりない。むしろ監禁されていることに対する不満と自由への憧れといった、よくある平凡なテーマが中心である。

 シモンズには自らの精神病に対する幻滅があったような気がしてならない。彼はアヘンやハシシによってもたらされる想像力の解放を謳い上げた文学を知っていた。(おそらくそのどちらも彼は使ったことがあるだろう。)「狂気は世界を失わせるが自己を発見させる」と言ったネルヴァルの文学を彼は愛していた。この時代に、狂気と文学的創造性の神話は全盛時代を迎えていたといっても良い。しかし、現実の彼の精神病のエピソードは、アンチクライマックスだった。シモンズの精神病は、ネルヴァルらが約束していた輝くような啓示をもたらさなかった。同じ精神病院に閉じ込められている患者たちは、シモンズにとっては異人でしかなかった。そして彼の文学的創造力は、精神病を機に花開くのではなくて、むしろ枯渇していく。

 精神病が創造性を刺激した芸術家たちの例を我々は無数に知っている。その逆、つまり精神病によって創造性が挫かれた作家の名前を、私たちは何人上げることができるだろうか?