地図作成の科学


ひきつづき、初期近代の地図学の論文を読む。文献はTurnbull, David, “Cartography and Science in Early Modern Europe: Mapping the Construction of Knowledge Space”, Imago Mundi, 48(1996), 5-24.

 この30年ほどの科学論の常套句に、「科学は普遍的な知ではなくローカルな営みである」というものがある。その当否はともかく、科学がローカルだと主張しているわりには、昨今の科学論は地理学的な考察をしていない。科学論は、もっと空間的なファクターを研究するべきだという主張は確かに的を得ている。そんな反省があって、できるだけ地理学的な論文を読むようにしている。

 昨日紹介した論文に続いて、この論文も面白かった。いわゆる大航海時代から17世紀にかけてのヨーロッパ各国の地図作成事業の検討である。大航海時代に、ポルトガル、スペインの両国は、各々の貿易庁にあたる役所に帝国地理院とでも訳すべき部局を置く。新大陸のさまざまな土地から集められる地誌的な情報を、国家が一箇所で管理して統合する部局である。それぞれの航海者は思い思いの仕方で情報を提供するから、それをまとめ上げるためには、知識の標準化の枠組みを作ることが必須になる。しかし両国の地図作成は技術的な理由でうまく行かなかったという。この「技術的な理由」というのは、プトレマイオス法やメルカトル法などを使わない、ポルトラーノ図であったためと説明されている。(ポルトラーノ図という表現は、ウェッブ上を検索して春日匠さんのサイトから借りた。)一方、17世紀の半ばに設立されたフランス王立天文台で作られた地図は、別の原理で纏め上げられた。この作業を監督したカッシーニ父子が行ったのは、ヨーロッパ中の天文学者から情報を集め、世界のさまざまな地点が星に対して持つ相対的な位置を測定し、その上で都市相互の相対的な位置を地図上に書き込むことであった。この巨大プロジェクトの成果は、パリの王立天文台の床に描かれた直径7メートルの丸い地図という形で公表されたという。

 図版はカッシーニ(父)が床の上に完成させた地図を、息子のジャック・カッシーニが印刷して紙の上で表現したもの。オリジナルは、見物人に踏まれて傷んだのか、17世紀の終わりには消えてしまったという。

春日匠さんのサイトは http://skasuga.talktank.net/index.html