ジュネーヴのペスト・スプレッダー

 16世紀のジュネーヴのペスト・スプレッダーの研究書を読む。文献はNaphy, William G., Plagues, Poisons and Potions: Plague-Spreading Conspiracies in the Western Alps c.1530-1640 (Manchester: Manchester University Press, 2002).

 先日のマンゾーニの本でも大きく取り上げられているが、1630年のミラノのペスト流行では、人々は「ペスト塗り」の恐怖に慄いていた。これは意図的にペストを広める犯罪者で、小説の中では主人公がこれと間違えられて窮地に陥っている。ペスト・スプレッダーとしてはむしろジュネーヴのそれが有名で、堅実で信頼できる社会史研究が一冊ある。

 ジュネーヴで「毒膏塗り」が現れたのは1530年である。(「ペスト塗り」よりも「毒膏塗り」の方がフランス語の原語に近い)それ以前の約80年間にわたって、ペストはジュネーヴをがっちりと捉えていた。しかし裏を返すと、ジュネーヴの市当局はペストに慣れていたとも言える。北イタリアの諸都市のような常設の衛生局は置かれなかったが、市の行政に携わるものたちには、事実上の常設の衛生局員と化しているものもいた。この期間のジュネーブにおいては、ペストはルーティン化していた。そう考えると、1530年になぜ「毒膏塗り」の噂がジュネーヴ市民の想像力を捉えてしまったか、謎はむしろ深まるのだけれども。 

 1530年に街で悪臭がする布切れを落としたのを見咎められたジャン・キャドが捕えられ、人々の家の門に毒膏を塗ってペストを広めていたことを告白する。拷問を恐れての告白であった。キャドは共謀者の名前も告白し、それは市のペスト病院の外科医であった。外科医をはじめ、その後に逮捕された一連の者たちは、病院や死体運搬などの防疫作業に携わるものたちで、ペストの流行を長引かせることが彼らの利益になるから、毒膏を塗って回って流行を維持していたという。そこでは悪魔も魔術もなかった。利益目当ての集団毒殺という確固とした犯罪者像をジュネーヴ市民と判事たちは持っていた。その後のペストの流行時にも散発的に毒膏塗りの告発と裁判は現れたが、特に大きな事件に発展したのは1545年であった。そのときには防疫作業に携わっているものたちが組織的に陰謀を仕組んで毒膏塗りを行っているという密告があったせいで、取り調べられたものの数は65人に上った。これは組織化された犯罪集団であった。1571年にも小規模な毒膏塗りの一連の事件があったが、この時には毒膏塗りの事件は魔女狩りとのかなりのオーヴァーラップがあり、サバトに飛行したとか悪魔に膏薬を貰ったとかいう悪魔学のテーマが現れるという。毒膏塗り像は、強欲な毒殺者という普通の犯罪者像から、組織的な犯罪・謀略集団を経て、ついには悪魔の同盟者へとなっていく。

 死体を運んだり避病院で世話をしたりして防疫の実働部隊として働いたものたちに貧民と外国人が多いことから、毒膏塗りとして告発・処刑されたものも、やはり貧民と外国人が多いという。