イタリアのマラリア対策

 19世紀から20世紀にかけてのイタリアにおけるマラリア根絶の論文を読む。文献はSnowden, Frank M., “‘Fields of Death’: Malaria in Italy, 1861-1962”, Modern Italy, 4(1999), 25-57. おそらく、同じ著者による一冊の書物をコンパクトにまとめた論文で、非常に優れた論文である。

 イタリアの南部は長いこと深刻なマラリアに苦しめられていた。1887年の調査によると、年間のマラリア死亡者が約2万一千人で、そのうちの85%は南部に集中していた。ヨーロッパ列強のうち、国内に深刻なマラリア問題を抱えていた唯一の国であった。自然環境と社会状況の双方がマラリアを深刻化させていた。イタリアの粘土質の表土と降雨のパターンは、アノフェレス蚊の成育に最適な環境を作り出していた。南部の経済水準は北に較べて低く、不在地主制が広がっていたため、マラリアが浸淫した低湿地を改良するための資金は遅々として集まらなかった。穀物の収穫などの、マラリア感染のリスクが高い農作業には、使い捨て同様に集められた日雇い労働者が使われた。孤児院の孤児が、奴隷同然に売られて用いられることもあったという。

 イタリア統一以来、さまざまな政権がマラリア問題の解決に取り組んできた。この論文は特に二つの時期の非常に異なるアプローチを重点的に紹介している。一つは1890年代から第一次世界大戦までの時期で、キニーネの配給による根絶が構想されていた時期にあたる。国家がキニーネを買って自治体に配分し、そして地域や職場を通じてキニーネを社会の末端までいきわたる機構が作られた。この構想の一つの特徴は、マラリアを職業病であると特徴づけ、農民や労働者がマラリアに罹患することは雇用者や地主の怠慢であると位置づけたレトリックだった。医者や看護婦、公衆衛生の保健師たちは、イタリアの最下層の労働者たちに、健康は彼らの権利であると説いて回り、地主や資本家たちと軋轢を引き起こしていた。これは、必ずしも国家が意図したことではなかったが、マラリア対策はイタリアの労働者を組織化し、彼らに政治的・医学的な「権利」の言語を与えることとなった。マラリア対策が盛んであった地域において、農業労働者たちの組織的な労働争議が盛んになったことは偶然ではない。

 このプロジェクトは第一次世界大戦中におけるキニーネと医療従事者の不足などで頓挫した。それと同時に、キニーネによる根絶はやはり不可能であるということが見えてきた。その後を引き継いだのが、ムッソリーニファシスト政権である。ファシスト政権は、20世紀初頭のリベラルなマラリア対策とは全く力点が違ったマラリア対策を採った。具体的には排水工事などをして改良した土地を、退役兵士などに与えて自作農を作り出すというものであった。そこではマラリアは地主の怠慢や職業病などの社会的な問題はなく、土木工学によって解決させられるべき問題となった。この政策は特にローマ周辺の中部において顕著な成功を収め、少なくとも部分的なマラリアの制圧はムッソリーニの誇りであり、ファシスト政権を正当化するレトリックとしても用いられた。 

 皮肉なことに、このマラリア制圧を元の木阿弥にしたのは、イタリア国内で連合軍と戦っていたナチス・ドイツの軍事行動であった。敗走したドイツ軍は、イギリス軍やアメリカ軍の追撃を遅くするため、彼処で堤防を決壊させるなど沼地化作戦を行った。沼地に再びアノフェレス蚊が繁殖し、マラリアの死亡率は急上昇した。ムッソリーニ政権が崩壊しイタリアが降伏した時には、ムッソリーニ政権の誇りも失われた状態であったのである。この状態から、アメリカ軍による集中的なDDT散布により、20年でイタリアのマラリアは根絶されることとなる。