ポストコロニアル医療

 授業の予習のため、ポストコロニアル医療について、簡にして要を得たという表現がぴったりの論文を読む。文献はPackard, Randall, “Post-Colonial Medicine”, in Roger Cooter and John Pickstone eds., Companion to Medicine in the Twentieth Century (London: Routledge, 2003), 97-112. パッカードの論文や書物はどれも明晰で射程が長く、読むたびに感心している。これまでも何回か記事にした。

 「ポストコロニアル」というのは、「植民地時代の後の」という時代を表すタームであるのと同時に、西洋の思想文化によるヘゲモニーに対して、それとは別の社会と文明のヴィジョンを涵養しようという思想運動に対して用いられる言葉である。この論文は、この基本的なことから出発して、ポストコロニアル期の発展途上国の医学は、どれだけ思想的にポストコロニアルなのか?という問いを発するところから始まる。この問いに対するパッカードの答えは非常に否定的である。第二次世界大戦後のアジアやアフリカの植民地の独立のあと、西洋の医学によるヘゲモニーは拡大し深化した。植民地時代の西洋の文化の中で、ポストコロニアル期にもっとも強化されたのは医療であるとまで主張している。私はこの主張の当否を判断する資格はないが、音楽、文学、思想などの領域における「土着の文化」の隆盛を考えると、確かに当たっているかもしれない。

 1960年代までには、旧植民地が独立し、欧米列強と日本の支配から脱したにもかかわらず、なぜ、開発途上国における西洋医学のヘゲモニーは深化したのだろうか?ポスト・コロニアルな医療はどのように変化したのだろうか? パッカードは、ポイントを挙げている。まず第一に、植民地時代との連続と断絶である。植民地時代には、植民地の健康政策は狭く定義されており、ヨーロッパ植民者を守り、植民地からの経済的な利益を上げるということが、健康政策の目標であった。植民地行政の拠点となる都市と、経済的に重要な地域などの、限られた地域と人口の健康を確保することが、すなわち植民地を健康にすることであった。この中で、地方部や生産的労働に直接携わらない人々は、政策の射程に入っていなかった。

戦後の経済発展の理論と実践は、開発途上国の活発な消費が先進国の経済発展にとって重要であることを認識し、より広い層の人々の健康と豊かさへと関心を拡大した。広範な大衆の支持を必要とした戦後の独立国家も、植民地時代より広範な人民の健康を志向した。しかし、都市部に居住することが多かった独立国家のエリートたちは、当該国家の経済力や資源から見たときに不相応な設備を持った病院を都市部に建設することを優先した。地方部の一次医療が整備されていないのに、首都には先進国のそれにひけをとらないような最先端の三次医療施設が建設された。輸出をあてこんだ旧宗主国の医療機器産業に後押しされた医療支援計画もこのアンバランスな発展を助長した。植民地時代の医療資源の分配の不公平は、独立後も変わらなかった。

 戦後の開発途上国の医療と健康は、旧宗主国の支配を離れたが、すぐに巨大な国際組織の影響下に入ることになった。WHOやユニセフである。これらの超国家的な組織は、ジュネーヴやNYで決定された政策をトップダウンで現地に降ろすという意思決定の仕組みを取っていた。現地人の健康政策を、現地の人々が参画して決定するという草の根型のそれは、一部の例外を除いて実現しなかった。一方で、拡大する共産主義の影に脅えた西側諸国は、共産主義ファシズムを連想させる総合的な健康政策とは違う方策を取った。マラリアや天然痘などの特定の疾患にしぼったテクニカルな健康政策にした上で、それらの実現によって途上国を共産主義の拡大から守ろうとした。1978年までのWHOの政策が「垂直的な」ものであったのは、専門分化していく医学と医療の動向を反映したものであると同時に、共産主義や社会主義とは異なった健康開発モデルを構築していこうとしたからであった。