宮廷のパラケルスス

 必要があって、初期近代のヨーロッパの宮廷医学についての論文集を読む。文献は、Nutton, Vivian, ed. Medicine at the Courts of Europe, 1500-1837 (London: Routledge, 1990). ナットンのイントロダクションをはじめ、すぐれた論文が揃っているが、やはり白眉はトレヴァー・ローパーが書いた、宮廷のパラケルスス主義医学についての論文である。Trevor-Roper, Hugh, “The Court Physician and Paracelsianism”, in Vivian Nutton, ed. Medicine at the Courts of Europe, 1500-1837 (London: Routledge, 1990), 79-94.

 宮廷の医者の基本的な役割は、君主やその家族や廷臣たちの病気を治すことである。当然、宮廷を構成する「世帯」の大小に応じて、医者の数も変わってくる。ルイ16世の宮廷は、内科医と外科医をそれぞれ20人以上ずつ抱えていた。しかし宮廷医は単なる君主の医者ではなかった。初期近代の宮廷が多様で大きな社会的な機能を果たしていたように、宮廷医たちも、君主たちの病気を治すこと以外のさまざまな機能を担っていた。ドイツの諸国家の宮廷医たちは公衆衛生局長的な機能も持っていた。先日取り上げた公衆衛生の父のヨハン・フランクも、宮廷の医長に職について公衆衛生的な政策を行っていた。学問や芸術を愛好する君主をいだく宮廷の医者は、君主の趣味に従って薬草学、植物学、化学研究などを行っていた。これらは、当時の科学の水準で言うと、大規模な探検の組織を含めたビッグサイエンスであり、先端科学でもあった。

トレヴァー・ローパーの論文は、初期近代の医学における最も過激な改革を唱えたパラケルススの医学が、最初はドイツの諸国家の宮廷において、後にはフランスやイングランド・スコットランドの宮廷において庇護されたという事実を、トレヴァー=ローパーならではの流麗な語り口で説いた論文。彼が語る史実というのは、全く知らない国の全く知らない人物の話をしているのに、どうしてあんなに生き生きとしているのだろう?

 パラケルスス主義の最初のパトロンは、バヴァリアのノイブルクの選帝侯オットー・ハインリッヒであった。彼の侍医のアダム・フォン・ボーデンシュタインや宮廷の薬剤師のハンス・キリアンは、生前に書物を殆ど出版しなかったパラケルススの手稿を集め、40点ものパラケルススの書物を出版し、あるいはパラケルススの全集を編集した。パラケルススの医学は、1570年代には他のドイツ圏の諸国家にも急速に広まり、デンマークの宮廷医のペーター・ソレンセンは、同じ宮廷の宮廷付天文学者であったティコ・ブラーエとともに、ヨーロッパに名声をとどろかせていた。デンマークの宮廷に花嫁を迎えに来たスコットランド王ジェームズ六世は、そこで知り合ったスコットランド人のパラケルスス主義の医学者をエディンバラに迎え、後にイングランド王ジェームズ一世となった時にも、彼をロンドンに伴った。移入されたパラケルスス主義が特に栄えたのは、当時の皇太后カトリーヌ・ド・メディシスの宮廷であった。後にブルボン王朝の祖としてフランス王となるナヴァールのアンリ公の宮廷にもパラケルスス主義の医者が顔を揃えており、フランス王となった後にアンリ四世のフォンテーヌブローの宮廷はパラケルスス主義の牙城として、パリ大学の医学部と激しく対立した。


 
 既存の権威を破壊して新しい世界観を唱えただけでなく、神の降臨が近いと信じ、神秘主義的な熱狂の中で、地上の権威全体を否定したパラケルスス主義が、宮廷の支配者たちに庇護されたメカニズムというのは、よく分かっていない。しかし、この庇護を通じて、パラケルスス主義が変質したことは事実である。パラケルススが好んだ平民と共有されたドイツ語ではなく、教養人のしるしであった優雅なラテン語の書物がパラケルススの名を冠して出版され、彼のシンプルな経験主義は学問としての医学の中へと回収されていくことになった。