奄美諸島の私宅監置



 必要があって奄美諸島の精神病患者の私宅監置についての報告を読む。文献は佐藤幹正「奄美地方復帰当時における精神病患者の処遇状況について」『九州神経精神医学』4(1955), 140-149.

 1900年の精神病者監護法で「私宅監置」が法制化される。この法律について「精神病患者が座敷牢に閉じ込められるようになった法律である」と誤解している人が多いから強調しておくが、地方自治体の許可を受けた責任者が、定められた監置室(いわゆる座敷牢)に精神病患者を監禁することを定め、それ以外の形式の監禁を禁じた法律である。多くの人々の批判にもかかわらず1950年の精神衛生法まで効力を持ち続けた。この論文は1954年に、過去の台帳をたよりに奄美諸島の33名の患者(男子29名・女子4名)を回った調査に基づいていたもの。

 この地方は住居が小さいので独立して建てられた監置室が非常に多い。高燥な土地に建てられて熱帯性のそよ風が絶えず吹きぬけて採光通風ともによく、案外清潔で衛生的なものもあったが、中には茅や木の壁で四方を閉鎖され、日光や通風が全く遮られている例も少なくない。幾つかの例については、学術論文に許される限りの表現で糾弾されている。 「精神病看護の歴史上いまだかつてその類例を聞かないところの、全く移動性を欠いた足かせやその他鉄製の手かせによって患者の運動の自由が極度に拘束されていた例が数例存在していた。これは徳之島の天城村、東天城村および沖永良部島の知名町で発見された。この手かせ、足かせは原始の昔から伝わった慣習によるものかもしれない。ただ沖永良部島の場合は、当時の吏員がサジスムスの傾向を持った人物であったことに基因したもののようにおもわれる」 

 吏員のサディズム・・・この論文を書いた佐藤は、何か具体的なことを知っていてこう書いたに違いない。私宅監置のシステムは市町村に対してのみ責任を負うものであったから、吏員の好みで大きな地域差が出てきたのだろうし、小さな村ほど特定の吏員の影響が出やすかったのだろう。私宅監置を研究している橋本さんや兵頭さんならそのあたりの事情を知っているだろうけれども、私はこれまで家族の態度で決まってくる側面しか考えたことがなかった。

 佐藤の論文に掲載されている写真を全てアップしました。地方の貧困が生んだ精神医療という雰囲気がひしひしと伝わってくる。私が見ているのは東京の病院で、関東大震災の後に「東洋一」として落成した鉄筋コンクリート三階建ての近代病院である。そこに「ヒステリー」という病名で入院したお嬢様たち―「自宅から金魚鉢を持ってきて病室に飾っていいかしら?」「付き添いを三越に遣ってブラウスを買ってこさせました」という台詞を吐くような人たちの記録ばかり見ている私には、いい薬になった。