戦争神経症

  必要があって特に戦争神経症についての論考を読む。文献は早尾乕雄「戦場神経症並ニ犯罪ニ就テ」高崎隆治編集・解説『十五年戦争重要文献シリーズ 軍医官の戦場報告意見集』(東京:不二出版、1990)。同書は上海における日本軍兵士による略奪・強姦・傷害・殺人などの記述を多く含んでいるので、南京大虐殺などの研究者たちによく利用されている有名な資料である。早尾乕雄は金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の教授。日中戦争の開始後に召集を受け、後に国府台の陸軍病院へ転属になり、精神病理の臨床に携わったという。

 おそらく速報的な性格が強い論文なのだろう。患者を調査はしているのだが、詳細な症例もないし、本格的な分析らしいものはない。(これは、本格的な敵襲らしいものが少ない状況で、ヨーロッパの第一次大戦で有名になったシェル・ショックにあたる症状を示す兵士が少なかったという事情もあるのだろう。)本国から船できて、上陸を待つ間に召集以来の高揚感が消失してしまって神経衰弱になるだとか、入隊によって生活が激変して反応性神経症になるだとか、家族からの手紙がないと、手紙が没収されたとか妻が不貞を働いているというような妄想を持つようになるだとか、神経症については読み応えがあることはあまり書いていない。早尾の目を引いたのは、むしろ過度の飲酒である。酒類を際限なく配布することから、慢性アルコール中毒者の数は極めて多く、これが軍の規律を著しく乱していると非難している。

 早尾がさらに問題視しているのが犯罪である。内地であれば善良な市民であるような兵士たちが、略奪、無銭飲食、強姦、恐喝、傷害などの「不良行為」を競うように行うのを目撃し、中国人を何人殺したというような残虐行為を自慢げに語り合うのを聞き、しかもそれが罰されていないことに、早尾は愕然としている。

 この理由として早尾が重要視しているのが、大都市の不健全な享楽の問題である。軍人は天国を目指すように上海に集まり、そこでダンスに興じ、下等の売春婦に戯れ、剣や拳銃で傷害するなど、「到底内地人の夢想だにせぬこと」を行っているという。「上海は実に日本軍人の犯罪都市と化したる感あり・・・上海は俗悪となりここに日夜集将兵の醜態眼を蔽うものあり」という。この観察の背後には大都市の病理化という、当時の精神医学者の間で議論されていた意識が見える。飲酒と大都市というのが、彼が戦場の精神病と犯罪を通じて発見した問題であった。