身体のポストモダニズム

未読山の中から、ダナ・ハラウェイの論文を読む。文献はHaraway, Donna, “The Biopolitics of Postmodern Bodies: Determination of Self in Immune System Discourse”, Differences, 1(1989), 3-41. なお、ハラウェイの著作はいくつか翻訳されているが、私にはこの翻訳は全く歯が立たなかった。これは、翻訳が悪いと言っているのではない。 世の中には翻訳できない文章もあって、ハラウェイはその一つだと思う。 朧月夜さんがお好きなラカンも、そうではないかと私は思っている。 

 ハラウェイの論文を何本か読んで、私にとってはとても難解だったこの書き手を理解するコツが次第に掴めて来た。彼女が考えていることはわりと単純で、そんなに難しいことではないし、そんなに突拍子もないことではない。 

 自己、性、民族、経済、そして自己など、現代文明の鍵になる領域において、大雑把に言うと「アイデンティティと自然の神話」と呼べるものが否定されている。自己の統一性ではなくて多層性が強調され(無意識とか多重人格とか)、異性間の生殖を目標にした性交が唯一つの「自然な」性愛の形であることは否定され(ゲイの解放)、先進諸国は移民によって構成される多民族社会になり、企業のアイデンティティよりも合併と多国籍化が進んでいる。そういった現象と似た構造を持つ現代の科学理論と実践、特に人間身体についての科学技術を<探し出して>分析することが、ハラウェイの大きな狙いである。

 歴史学の世界では、ある枠組みを決めて、その射程に入ってきた現象だけを取り上げる態度を「決め打ち」などと言って頭から批判的に捉える傾向があるが、同じ決め打ちと言っても、クリエイティヴなものと、そうでないものがある。 ハラウェイで苦しんでいる科学史の研究者は少なくないと思う。 「彼女は決め打ちをしている」ということが分ると、私はこれまでの苦しみが嘘のようにすっと分るようになった。 「そんな当たり前のことに、いま気がついたの?」と同業者たちに笑われそうだけれども(笑)。

 かつての「自然」と「同一性」は規範的な概念であった。「自然」「アイデンティティ」は、自動的に価値があるということであり、それには「科学」が大きな役割を果たしていた。近代の「自然神話」「同一性神話」が崩れてポストモダンな価値観が形成されるときに、新しい科学技術はどのような役割を果たしているのか、それが鋭利に現れる文脈を―そういう文脈だけを―ハラウェイは取り上げている。「差異の問題は、アイデンティティと実体の統一の政治学に基づく解放を唱えるヒューマニズムを不安定にしている」「身体は一つの戦略的なシステムとして捉えられている。性やセクシュアリティ、生殖は、局所的な投資の戦略である。身体は正常な機能が形作る安定した空間的な地図ではなくなり、戦略的な差異からなる動く場として現れた」といった、彼女の言明が、その狙いを考えると何となくわかるようになった。こういった洞察を具体的にどのように使いこなせるかどうかは、まだピンとこないけれども。