『武士道の逆襲』

 大三元さん(とお呼びすればいいのかしら?)のブログで見かけた書物が役に立ちそうだったので、買って読む。文献は菅野覚明『武士道の逆襲』(東京:講談社現代新書、2004)

大三元さんの記事はこちら 
http://blogs.yahoo.co.jp/honestly_sincerely/50458146.html

 寡聞にして著者のことを存じ上げていないが、日本思想史の研究者で学術賞も獲っている優れた学者。この書物も実力者らしい核心を鋭く突いた洞察が随所にあって、読み応えがあった。

 筆者は歴史的な武士道を、平安時代から戦国時代まで、徳川時代、そして明治以降の武士道の三期に分ける。前の二つには連続を見て、徳川時代と明治時代の間には断絶を見る。連続と断絶の基準は何かというと、現実の武士、闘う事をなりわいとしていた集団が存在していたか否かということである。戦国の時代が終わって官僚化した武士は変質したという学説を聞いたことがあったが、筆者はこの変質を認めつつ、これを「断絶」とは捉えない。その上で、現在の武士道の理解が、明治以降の武士道、特に新渡戸の武士道論に大きく影響されている事態を正すために、歴史上実在した武士たちが抱いていた行動規範を明らかにするというのが、この書物の目標である。

 武士たちは、闘って勝つための「力」-これは実際の武力も含めて、知力や「腹が据わっている」ことなど、あらゆることを含めた「力」である-を重視していた。この「力」というのは、最終的には「個人」に宿るもので、組織によって保障されるものではなかった。組織に対しては「忠」という抽象的に理解される道徳ではなく、ある個人と個人の間に発生する強烈な感情―それを「葉隠」は「恋」と呼んでいる-に基づいた主君への忠誠が武士の行動の根源であった。

 武士の政権である徳川氏を倒して成立した明治国家が必要だったのは、それぞれの主君ではなく「国家」という抽象的なものに忠誠を誓う軍人たちであった。これは、軍隊を「天皇」という個人に統帥させることで解決される。一方新渡戸の『武士道』は、現実の武士道から、西洋のキリスト教と騎士道の理念に合致する部分を抜き出して誇張したものであり、コスモポリタンな道徳を志向している理念である。
 
 力がある学者が書いた歴史書というのは、自然に自分と現在に思考を誘うものであるが、この書物はまさにそんな書物であった。この書物を読んで、私はいったい何に忠誠を誓っているのだろうか - ということを、しばらく考えた。