ハンセン病療養所の患者自治

少し前にいただいた論文で、ハンセン病療養所における患者自治を扱ったものを読む。文献は、松岡弘之「ハンセン病療養所における患者自治の模索-第三区府県立療養所外島保養院の場合-」『部落問題研究』No.173(2005), 2-21. 

外島保養院は関西の二府十県によって1909年に大阪市に開設されたハンセン病の療養所で、そこで導入された患者自治のようすの研究である。開設直後の保養院は、低予算による劣悪な生活水準に加え、患者の間では賭博とモルヒネ中毒が蔓延し、患者は院内で暴動を起こし、脱走は後を絶たなかった。1910年には患者が集団で抜け出して近隣の集落を襲撃するという(私にとっては)衝撃的な事態も発生した。 

しかし、この無法状態と言ってよいハンセン病療養所は、急速な変貌を遂げていく。その一つにきっかけは、院長であった。ハンセン病の隔離は国家の政策であり、外島療養所は府県知事の監督を受けることになっていたが、実際には院長の広い裁量権が認められていた。この裁量権のもと、院長の今田虎次郎は大正デモクラシーの風潮のもと、患者自治を積極的に認めていく方針を打ち出し、1919年に患者自治会が自治権を返上しようとしたときには、患者たちを叱咤激励して自治の精神を鼓舞したという。

この院長側からの、患者の管理をも目標にした、いわばお仕着せの自治と並行して、患者たちの側からも自治が育っていった。これは入院者数の増加にともなって、開設直後のように浮浪者が過半数を占めるような状況がなくなり、普通の職人商人が入所するようになり、官吏や僧侶などの知識層すらも入所するようになったことと関係がある。また、二代目の院長の村田正太(まさたか)は、彼自身もエスペラントの普及者で人文主義的な背景が強い医者であったが、彼のもとで患者たちは文学や倫理などを学習する機会を得ることができた。村田のもと、患者の中のキリスト教徒たちは聖書会を組織してハンセン病と向かい合って生きる状況の意味を問い、やや遅れてマルクス主義者たちは、政治的な権利の意識を強め、先駆的な患者運動を展開していた。「ハンセン病療養所は患者撲滅のための凄惨な施設とするだけでは捉えきれない、隔離政策を起点とした医療と生活をめぐる矛盾の結節点として把握される必要がある」という著者の結論は、的確なものだろう。

近代日本のハンセン病施設の評価は、この20年間で最も振り子の「振れ幅」が大きかった医学史上のトピックである。長島愛生院の光田健輔は、神様からナチになった。しかし、振り子はもう「振れ切った」という印象を私は持っている。この論文のように、ハンセン病施設の光と影の双方を的確に把握しようとする、歴史学者としては当たり前の研究が、近い将来に主流になるのだろう。