19世紀パリの衛生学者

未読山の中から、初期の衛生学者で19世紀パリで活躍したパラン=デュシャトレ(Alexandre-Jean-Baptiste Parent-Duchâtelet, 1790-1836)の短い伝記研究を読む。文献は、La Berge, Ann Fowler, “A.J.B. Parent- Duchâtelet: Hygienist of Paris, 1821-1836”, Clio Medica, 12(1977), 279-301.

パラン=デュシャトレは売春に関する緻密で大部な著作で有名だけれども、それ以外にもたくさんの衛生関係の仕事をしている。この論文で印象に残ったのがパリの下水処理の話。パリの郊外にはモンフォーコンという悪名高い土地があり、そこにパリの下水の堆積物が集められ、いったん乾燥されて肥料に使われていた。さらに悪評が高かったのが馬の死体の解体場であった。パリ中の下水の堆積物と馬の死骸が山と積まれているこの地域から立ち上る悪臭はすさまじく、当時のミアズマ説に基づいて、周辺市民の健康を損なうと苦情が出ていた。1830-31年のコレラ流行に際しては、この悪臭がコレラの直接・間接の原因であると糾弾する声が上がっていた。

しかし、コレラの流行の後にパラン=デュシャトレが調査してみると、馬の解体業者からはコレラ患者は出ていなかった。周辺のコレラの罹患率は、パリのほかの地域よりもむしろ低かった。耐えられないほどの悪臭で不快であっても、病気を起こすわけではないという事実が明らかにされたのである。

その悪臭自体はコレラのハザードではないにしても、モンフォーコンに象徴される下水処理は、パラン=デュシャトレの時代の衛生学の関心の中心だった。パリの下水といえば、『レ・ミゼラブル』の舞台となる巨大な下水システムが有名だけれども、デュシャトレたちは一足飛びにこのシステムを構想したのではなかった。当時のし尿は貴重な肥料として取引されたので、デュシャトレたちは、下水溜めのなかから固体部分をすくって集めて肥料として利用し、液体部分は、必要があれば消毒した上で、下水や川に流すシステムを構想した。後の下水システムへの中間段階への工夫であり、し尿の商品価値を尊重した仕組みであった。