疾病環境のタイム・トラベル



必要があって、大西洋の両側の疾病環境についての論文を読み直す。文献はDobson, Mary J., “Mortality Gradients and Disease Exchanges: Comparisons from Old England and Conolinal America”, Social History of Medicine, 2(1989), 259-297. 20年近く前の論文だけれども、疾病の歴史の傑作。

アフリカから新大陸へ送られた数千万人の奴隷が果たした疫学的な役割は良く知られている。鍵は、ある人種はマラリアに抵抗力を持ち、マラリアが浸淫した地域の開発は、その人種の大量移民なくしては不可能であったということである。この人種とは、アフリカから奴隷として送られた約2千万人のアフリカ人たちであった。彼らが労働集約的な大プランテーションが成立することを可能にした。

この論文は、アフリカ人奴隷のほうではなく、ヨーロッパからの移民、特にイギリスからの移民を問題にしている。鋭い洞察が満載である。その一つは、死亡率の変動を組み込んだ考察。低いところで安定している、全体としては低いけれども、時折激しいピークを示す、高いところで安定している、全体として高く、さらに激しいピークを示すなどの、「フラクチュエーション」を組み込んだ分類を試みていることである。 もう一つは、都市が未発達で人口密度が低かった新大陸では、イギリスでは常在化していた麻疹や天然痘が常在しておらず、この種の感染症の流行は、長い間隔をおいて現れる高い超過死亡のピークとなって現れたこと。そして、このことは、ヨーロッパで幼少時に罹患して免疫を得た移民第一世代と、めったに被曝しないまま人生の初期を過ごす第二世代の、ヴァルネラビリティの違いになって現れた。

言葉を換えると、次のようにいえる。17・18世紀のイングランドでは、飢饉や感染症により異常に高いピークが時々やってくる死亡パターンから人々は脱出していた。飢饉は乗り越えられ、感染症は小児病化していた。そのような疾病・死亡構造になっていたヨーロッパから、急性感染症が常在化していない新大陸にやってくることは、既に過ぎ去った死亡レジームへと移行する、いわば疫学的タイムトラベルだったのである。

・・・なんという魅力的な洞察なんだろう。あまりに魅力的過ぎて、どうやって扱っていいのか分らないけれども。

画像は本論文より。