大東亜共栄圏の医学

必要があって、宮島幹之助『熱帯生活の常識』(京都:人文書院、1942) を読む。

大東亜共栄圏で、大陸型気候の満州と並んで、熱帯に存する「南方」への進出が構想されると同時に、医学界は南方医学・熱帯医学ブームに沸き立った感がある。昭和16年の医学雑誌は先を争って「南方医学特集」を組み、南方への移民と雄飛を夢見る日本人に向かって南方生活の手引きの類の書物が数多く上梓された。本書はそのうちの一冊で、当時の日本医学の長老の一人で有数の国際派であった宮島幹之助によるものである。それまで亜熱帯の台湾で蓄積された植民地医学や、熱帯の南洋諸島委任統治領でのささやかな研究はあったが、東南アジアなどの地域についての日本医学の知識は乏しく、十分な準備なしに南方移民の健康管理の問題に取り組まなければならなかったという印象を持っている。

宮島の記述は、全体としてはトーンを抑え目にした南方移民の健康論である。他の書物が、大和民族よ、八紘一宇の精神のもと、いざ南方へ!と謳いあげているのに較べて、十分な警戒と注意を呼びかけている感がある。むろん、オプティミスティックに南方移住を語る部分も多い。移住当初の身体の不調は長く続かず、すぐに気候順化するだとか、炭水化物が多い日本人の食生活は、肉食が多い白人のそれよりも、熱帯での生活に適しているなどのことを論じている部分は、楽観論である。しかし、「マラリアの予防ができれば我々日本人はどんな熱帯地にも永住しうる」という台詞が象徴するように、乗り越えなければならない障壁が大きいことも宮島は認めている。宮島は、大日本帝国の将来と日本人移民の成功のためには、まなじりを決して病気と闘わなければならないことを説く。古代ローマ帝国の挫折と衰退は、それが熱帯の風土病(カンパーニャのマラリアのことを念頭に置いているのだろう)を克服できなかったことに由来すると書き、あるいは徳川時代のはじめに東南アジアに作られた日本人町が滅びていったのは梅毒のせいで、明治以降に東南アジアに移住した日本人も、かなりがこの病気に斃れているなどと書く。宮島を心配させたのは、東南アジアの日本人たちが、同地の欧米人たちに較べて程度が低くリスクが高い生活をしていたことであった。シンガポールなどで日中の仕事が終わって夕方になると、イギリス人たちはテニスやクリケットを、フランス人たちはカフェーでくつろぎ、ドイツ人たちはビアホールで語り合うのに、日本人たちは悪所で宴会をしていかがわしい女をはべらせるという。宮島はこの生活様式が日本人の性病罹患率を高めていると心配している。熱帯に単身赴任したイギリス人が、アフター・ファイヴに本当にクリケットばかりやっていたのかどうかは知らないが(笑)、宮島の目に映った熱帯に暮す日本人たちの生活様式は、彼を不安にさせるものだった。