「アリバイがある悦び」

マックス・エルンスト『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』を読む。巌谷國士訳の河出文庫

エルンストのコラージュ・ロマンの第二作。『百頭女』が旅行記で、『慈善週間』が自然哲学の百科辞典のジャンルに沿っているとしたら、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』は、まさに古典的なポルノグラフィの設定を借りている。マルスリーヌ・マリーという、姉と妹の二重の人格を持つ少女が主人公である。敬虔で早熟な彼女は、幼時から神への癒しがたい渇望に燃え、7歳の時にはじめての聖体拝領を受けようとするが、乳歯が残っていて幼すぎるという理由で拒まれる。彼女は「卑しい男」に陵辱され、さらに全ての歯を大きな石で叩き折られる。すると少女は神父様のもとに戻り、血まみれになった口を見せてもう乳歯は残っていないことを示し、聖体を拝領して喜びに打ち震える。16歳の時に、マルスリーヌ・マリーは両手を下水に浸し、指を針で刺し、その血で父親に手紙を書いて、床について夢を見る。その夢をコラージュで表現した連作絵画が同書である。性、暴力、瀆聖というポルノグラフィの古典的なテーマが、奇想に満ちたコラージュで表現されている。

ちょっと無駄話を。二回目の夢の冒頭で、主人公のマルスリーヌ・マリーは「私のハチドリたちはみんなアリバイがあります。私の体は百の深い美徳をまとっています」といい、そのすぐあとで「私の悦びはみんなアリバイがあります。私の体は百の深い裂け目をまとっています・・・」という。たぶんフランス語の言葉遊びがあるのだろうけど、調べていない。気になってしまったのは「アリバイがある悦び」という表現である。アリバイというのは、もともとはelsewhereというか、「別の場所で」という意味の副詞である。その悦びは別の場所で起きているというのだ。二重の人格を持って、悦びを感じているのは別の人格だからアリバイがあるというのか、それとも夢の中だからアリバイがあるというのか。ある現象が、私の身体・精神・感覚において起きているようだけれども、実は別の場所で起きているのだという言い方は、何か大きなヒントがあるような気がする。