国際衛生会議

国際衛生会議の基本的な研究を読む。文献はHoward-Jones, Norman, “The Sci-entific Background of the International Santiary Conferences, 1851-1938”, Part 1-6, WHO Chronicle, 28(1974), 159-171, 229-247, 369-384, 414-426, 455-470, 495-508.

1851年を皮切りに、1938年までの約90年間の間、国際衛生会議が合計14回開かれた。コレラの流行をきっかけに、ペストや黄熱病の国境や大陸を越えて広がった感染症に対する国際協力に基づく対策を論じる会議である。この会議で定められたことが国際衛生条約であると考えると、この会議はWHOの起源の一つということになり、この論文もWHOのもと編集・参考局長が、WHOのアーカイヴに基づいて書いたものである。

細菌学が確立されて受け入れられる以前の多様性も面白いけれども、私が特に知りたかったのは、日本が国際的な衛生会議などで重要な役割を果たす20世紀以降の話である。第一次世界大戦後に、日本は国際連盟の常任理事国となり、その衛生部門でも重要な役割を果たすが、その発言は少し浮いている。ここでは詳しく書かないけれども、ヨーロッパ諸国が一致した案に、日本代表が強硬な反対をして紛糾したような面白いケースもあった。その一つのポイントが、検疫であった。

詳しい経緯は私には判らないが、幕末の不平等条約のもと自国で検疫権を定めることができなかったのだろうか、1899年に成立した海港検疫法が定めた自国による検疫は、日本の防疫の中で神話的なと言ってもよい地位を占めていた。明治初期のコレラの侵入と流行は、外国からのコレラの侵入を検疫によって防ぐことができなかったからであるという主張が声高に叫ばれていた。この主張は控えめに言って疑わしいし、少なくとも明治12年や19年のコレラ流行の規模を、検疫の不備のせいにすることはできない。1910年代、20年代には、上海を中心とする中国からのコレラの侵入が取り上げられて、検疫によって中国からのコレラから日本を守るというパラダイムが、少なくとも外国に向けて発言する時の日本の防疫の基調になっていた。

問題は、検疫を重んじるこの思想は、当時のヨーロッパの国際衛生の中で時代遅れになっていたことである。1919年のパリの衛生会議の冒頭で、イタリア代表のサントリクイドは、国際衛生の考え方を180度転換しなければならない必要を説き、検疫によって感染を防ぐことは「古臭く時代遅れの迷信」になっていると宣言し、感染のもとを絶つことに力が注がれなければならないと論じている。この理念が、具体的には何を意味し、それがどの程度実現されたのかは分らないが、これは日本が過去20年間従ってきたパラダイムを否定するものであった。