『ハドリアヌス帝の回想』

必要があって、マルグリット・ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読む。多田智満子の名訳が白水社の「ユルスナール・セレクション」から出ている。同じ著者の『黒の過程』は、初期近代の医科学者を主人公にしている小説だから読んだことがあって、自分が研究している領域に近い主題ということを超えて、文学作品として傑作だと想っていた。こちらの『ハドリアヌス帝の回想』のほうは、それを超えた傑作で、この数年間に読んだ小説の中で、もっとも激しく感情移入して読んだ。・・・というような個人的な感想を書いていてもブログ記事にならないので、医療に関係することをつまみ食い的に紹介する。

本書は死病に侵されたローマ皇帝ハドリアヌスが、自分の養子であり次代の皇帝になると定められている人物に宛てた手紙で、自らの一生を回顧して物語るという形式を取っている。作品の冒頭は、皇帝が自らの病気を語ることから始められており、作品の末尾も病気の進行の苦しみが詳細に語られている。この二つの病気の記述に挟まれて、青年から壮年へ晩年への、期待・成熟・達成・喪失・老いなどをめぐる、思索的な回想が展開するという構成である。闘病記文学の一つの形ということもできる。

医者たちについての部分を抜書きする。冒頭と、末尾から。

「今朝わたしは侍医のヘルモゲネスのもとへ行った。彼はかなり長い間アジアへ旅して、このほどヴィラへもどったばかりなのだ。検査の前に食事をとってはならないので、朝早く会うように時間がきめてあった。わたしはマントと寛衣とを脱いで寝台に横たわった。(中略)医師の面前で皇帝たるは難い。人間としての資格を保つこともむずかしい。職業的な目はわたしのなかに、体液のかたまり、リンパ液と血液のあわれな混合物をしか見ていなかった。今朝、こんな考えが、はじめて心に浮かんだ - 肉体、この忠実な伴侶、わたしの魂よりもわたしのよく知っている、魂よりもたしかなこの友が、結局はその主をむさぼりつくす腹黒い怪物にすぎないのではないかと。だがもうよい・・・わたしは自分のからだを愛している。このからだはあらゆるやり方でわたしによく仕えてくれたのだ。いまとなっては、世話のやける彼の面倒を見ないわけにはいかぬ。」

「[死病が着実に進行する苦しみを耐える]わたしの忍耐は実を結びつつある。前ほど苦しまなくなったし、人生はふたたびほとんど甘美なものになりつつある。もう医師たちとも喧嘩をしない。彼らの愚かな療法はわたしを殺してしまったのだが、しかし彼らの得手勝手な推測や偽善的な衒学趣味はわれわれの作り出したものである。もしわれわれがこんなにも苦しむことをおそれなかったら、彼らとてあれほど嘘をつくまい。」

現在のお医者さんが「嘘をついている」と非難するわけではなりませんが、お医者さんたちが、「これは間違っている」あるいは「正しくない」と感じながら、でもやってしまっている行為のある部分は、「われわれが苦しむことをおそれている」からなのでしょうね、きっと。

この本は本棚の「愛読書」コーナーに置いた。この棚に置く本が増えるのは久しぶり。