解剖学とウルビノのヴィーナス


新着雑誌から、19世紀後半のイギリスにおける解剖模型博物館のポルノ化を論じた論文を読む。文献は、Bates, A.W., “‘Indecent and Demoralizing Representations’: Public Anatomy Museums in Mid-Victorian England”, Medical History, 52(2008), 1-22. 広範で緻密なリサーチに基づく傑作で、解剖の社会史の新しい局面を切り開く必読論文。 

死体解剖の社会史は、リチャードソンの名著 Death, Dissection and Destitute が提示したモデルを受け入れて、一般民衆が解剖に対して嫌悪と恐怖を持っていて、死体を調達したい医者たちが法律を制定して死体を手に入れる方法を編み出したとする見解をとっている。解剖用の死体泥棒や1832年の解剖法に対して民衆暴動が起きたことは、解剖に対する-特に「正義にかなっていない」解剖に対する-民衆の拒絶をもっとも劇的に示したものである。

この論文は、リチャードソンの著作とは違う角度から解剖に光を当てて、医者とエリート階級が解剖のある側面を拒絶して禁止したことを明らかにしている。その側面とは「解剖模型の展示」である。これはもともとは医学教育のために作られた取り外しができる蝋人形で、フィレンツェのスペコーラのものが有名である。イギリスには18世紀から大陸で作られた解剖教育用の蝋人形が輸入されていた。19世紀には一般の人々も料金を払えば入場できる博物館が設立され、1839年から67年の間に、ロンドンだけで8つの解剖博物館があったという。その模型は、人々に娯楽とショックを与えることも目標にしていて、写実的でエロティックな姿態をとらせたものが多く、女性の解剖模型はティティアーノによる『ウルビーノのヴィーナス』を、男性のそれはアドニスを模していたという。道徳的なイギリス人たちはこれを「フランス風の模型」と称して眉をひそめていたが、1857年のわいせつ物公開法をきっかけに本格的な処罰が始まる。裁判で有罪と決まると、これらの博物館の模型は没収され、粉々にされたという。

民衆-という言い方がどの程度正確かは分からないが-は、死体泥棒や解剖法に対しては暴動を起こして怒りを表明し、一方で解剖の蝋人形は喜んで料金を払っていた。一方医者たちや中産階級は、貧民の死体を自由に解剖する法律を通す一方で、解剖模型を陳列して一般人に見せることはわいせつであると断じていたということになる。この論文を読んで、19世紀の解剖と人体の表象についての話が、一気に複雑に、そして豊かになった。 なお、何度も書いていると思うけれども、Medical History は、いまは PubMed で全号読むことが出来ます。 

画像は、本文でも言及したティツアーノによる「ウルビノのヴィーナス」で、この春に上野の西洋美術館に来るので、上野のあたりには全身20メートルくらいの巨大なポスターがあって、その巨体が横たわっているようすは、お隣の科学博物館のシロナガスクジラを思わせる。 展覧会サイはこちら