環境と疫学


環境疫学の第一人者による、過去・現在・未来の環境変動が健康に与える影響を論じた書物を読む。文献は、McMichael, Tony, Human Frontiers, Environments and Disease: Past Patterns, Uncertain Frontiers (Cambridge: Cambridge University Press, 2001). たまたま、今まさに考えている仕事に直結する大きなアイデアをたくさん与えてくれたこともあるけれど、それを差し引いても必読の名著。この書物を5年以上知らないまま歴史疫学と環境史を勉強しているつもりになっていた自分の井の中の蛙ぶりに背筋が寒くなった。

アウストラロピテクスから、農業の発生・工業化を経て21世紀とそれ以降まで、広義の環境が、地球上の人間集団の健康にどのような影響を与えてきたかを、グローバルな規模で描いた書物である。何よりもすばらしいのは、事実の羅列ではなく、巨視的・鳥瞰的な構造を明らかにする視点を持っているということ。

たとえば、工業化に伴う環境汚染について、A. 家庭のごみ・下水や職場での有害物質などの被曝など、狭い地域に限定されているもの B. 排気ガスなど比較的広範な地域に及ぶもの C. 温暖化ガスなど、さらに広範囲に及ぶもの、の三種類を区別し、それぞれ工業化の初期にコントロールできたもの、先進国では科学技術と市民の関心の高まりを通じて20世紀の後半にコントロールできたもの、そしてこれから汚染が増大すると考えられるものとしている。このグラフの横軸はGDPになっているところがツボである。工業化のタイミングには当然ずれがあるから、先進国はCに向かうときにはA、Bの環境汚染はすでに解決されているが、第三世界の大都市に住む貧困層にとっては、A,B,C のすべての問題にさらされているというような洞察は、目からうろこが落ちた。こういう深く射程が長い洞察に満ちた書物である。

「疫学は死んだ」と言われているそうである。確かにそう思ってしまうこともあるけれども、この本を読むと、ぜんぜん死んでなんかいないというか、これほど知的興奮と倫理的なメッセージに満ちた学問はないと、誰もが見識を改めるだろう。