黄熱病研究の背景

アメリカ陸軍のウオルター・リードによる1900年の有名な黄熱病研究を社会経済的な背景の中に位置づけた古典的な論文を読む。文献は、Stepan, Nancy, “The Interplay between Socio-Economic Factors and Medical Science: Yellow Fever Research, Cuba and the United States”, Social Studies of Science, 8(1978), 397-423. 「イクスターナルな」方法を教えるときのお手本のような論文。

黄熱病研究の歴史には、医学史上有名な「タイムラグ」がある。基本的に正しい説が出されているにもかかわらず、かなりの長期間にわたってその説の正しさが認められない現象である。1881年に、キューバの衛生局長のカルロス・フィンレイは、同地で大きな被害を出していた黄熱病を研究して、ある特定の種類の蚊によって媒介される病気であるという説を唱えた。この説は基本的に正しいが、その後およそ20年間にわたって真剣に取り上げられなかった。1900年になって始めて、アメリカ陸軍の軍医であるウオルター・リードが、兵士のヴォランティアを対照群にわけて黄熱病に感染するかどうか観察する大規模な人体実験を行って、蚊による媒介を「証明」した。フィンレイの功績は正当に評価されず、黄熱病の感染のメカニズムを「発見」した功績は、もっぱらリードのものであった。

ステパンの論文は、なぜ基本的に正しい説が出てから、それが再び取り上げられるまで20年もかかったのかという問いに答えようとしている。論文の表題にもあるように、彼女の関心は社会・経済的な要因を特定することにある。要点を記すと、アメリカが米西戦争の結果ハバナを占領し、同地の黄熱病から兵士を守る必要が生じたことが、アメリカが黄熱病研究に本腰を入れて取り組むようになった理由だという。フィンレイが蚊による媒介説を発表した1881年には、黄熱病はアメリカの北部を脅かす病気ではなく、関心は高くなかったし、当てられる予算も少なかった。しかし、1898年のハバナの占領によって黄熱病が「高脅威」で優先順位が高い病気になり、予算が増大した。黄熱病が流行していて豊富に存在する地域で実験をすることも可能になった。戦争と占領にともなう新しい地域への人間の異動が、新しい科学研究の必要を生んだということである。基本的な主張は単純に聞こえるかもしれないが、記述は明快で問題をよく整理して論じている。