カラヴァッジオとデューラーの身体



デューラーの自画像の分析は、同じ著者の別の論文で分析されているのを読んだものでした。この絵は、昨日記事にしたBody Emblazoned では分析されていないのに、なぜこの画像を思い出したのかと不思議に思っていたのですが、そういうごく単純な理由だったのか(笑)。 文献は、Sawdy, Jonathan, “Self and Selfhood in the Seventeenth Century”, in Roy Porter ed., Rewriting the Self: Histories from the Renaissance to the Present (London: Routledge, 1997), 29-48.

二つの画像を中心に分析した優れた論文。最初がカラヴァッジオの『聖トマスの懐疑』で、この有名な絵画に、「自らの目で見る」個人的経験を重んじる科学的態度と、キリストの受難と自己同一視する宗教的敬虔さの二つの要素を見ていく分析。科学と宗教が、個人の身体、特にその傷、あるいは傷つけることという行為の中で、統合されているさまをシャープに分析している。死体検案などを表すautopsy の語源は、「自分で-見ること」である。

もう一つの分析の焦点がデューラーの「黄斑がある自画像」で、ここでは病気のデューラーは、「わが指が示すところが、私を苦しめている」と自筆で書き込んでいる。これは、もちろんデューラーの病気の報告であり、ある意味で自己診断である。彼が指さしているには、人を苦悩させるが高貴な芸術的創造性を持つことを可能にする黒胆汁の座である脾臓にあたる位置であるというクリバンスキーらの説は有名である。この論文では、これはキリストが十字架上で刺されたのと同じ脇腹で(反対側だけれども)、これも自己の身体の傷を媒介にしてキリストと自らを重ね合わせていく身振りだという。

トリヴィアを一つ。カラヴァッジオが『ラザロの復活』を描いたときに、同時代の解剖学者たちのように、墓から新しい死体を盗掘して、それをモデルに抱えさせてこの絵を描いたという逸話がある。確かに死後硬直しているようなこの体を見ると、妙に説得力がある。しかし、これはたぶんアポクリファで、同時代の人々の想像の産物だろうとのこと。しかし、そういう想像を生んだのは、たぶん解剖学者たちなのだろうな。

画像は、『聖トマスの懐疑』と『ラザロの復活』