赤坂真理『ヴァイブレータ』

必要があって赤坂真理ヴァイブレータ』を読む。講談社文庫から。

アルコール依存と食べ吐きを繰り返している女性のルポライターが、深夜のコンビニでトラックの運転手にあって、彼とともに東京-新潟の「航路」の時間を過ごす。彼と話もするし、トラック運転手仲間の無線でも話すし、セックスもする。話の最後は、才能と習慣の結果、天才的に上手くなっていた「食べ吐き」ができなくなり、嘔吐に痛めつけられて荒廃した主人公の皮膚が再生してくるという締めがつけられている。

数年前に大きな文学新人賞も取った話題の作家で、きっと他にも優れた点はあるのだろうけれども、私にとって赤坂の作品の最大の魅力は、身体感覚を言語化する冒険である。普段当たり前に存在して機能しわざわざ言葉に出す必要もない身体、それが病んだり痛んだりしたときでも、医者にどこが痛むかを大雑把に言って検査してもらえばいい身体。私たちの人格や存在や精神の基層である身体について、あれこれ詮索して言語化しなくてもいい。ドーパミンだとかエンドルフィンとかいう専門用語で身体現象を記述してもいいけれども、それは多くの場合、私たちの知的怠惰の中に挿入された借り物の言語である。ヴァージニア・ウルフが、アドレナリンが発見されたという報に接して、「1916年の1月を境にして、人間の本性が根本から変わった」と書いた(うろ覚えです。どなたか訂正してください)のは、「病むことについて」で、病気はまだそれを表現する言葉を見つけていないと書いた作家のアイロニーというべきであろう。 

赤坂の作品、とくにこの『ヴァイブレータ』は、ウルフのプロジェクトを実現して、ロマン主義の自己探求とモダニズムの世界観の亀裂と近代医学・生理学が出会った場であるような気がする。