パラケルスス選集

必要があって、パラケルススの選集を読む。文献は、パラケルスス『自然の光』J. ヤコビ編・大橋博司訳(京都:人文書院、1984)

この書物の序言は、編者のヤコビの「いかなる『選集』も一つの冒険だ」という気負った言葉、あるいは「きざ」と形容してもいい台詞で始まっている。内容はパラケルススのさまざまな著作からの抜粋を通じて、「内的な統一性」を与えた形で彼の医学・宗教・自然思想を伝えようとしたもので、パラケルスス自身が医者には珍しい「気負い」を込めて書いている(あるいは口述したものも多いだろう)文章だから、編者が気負ってしまうのもわからないでもない。

気負い云々はとにかくとして、少なくとも私のような初学者にとっては、パラケルススの思想を感じ取るのに、これほど役に立つ選集はない。矛盾だとか罵詈雑言だとかあまりに神秘的な思想だとかあるいは医学にテクニカルな文章を除いて編まれているということで、パラケルススのそういう部分は分からないようになっているけれども、これまで研究書を通じて知ってきたいろいろなパラケルススの思想の特徴を、彼のもともとの言葉に近い形で味わうことができるのは、ものすごくためになった。

たとえば以下の数節を。

あらゆる薬草はこの地上にあるが、これを摘み取る人間がいない。それらの収穫のときは満ちているのに、採取者が来ていない。正しい医薬の採取者がいれば、われわれは空虚な詭弁術による妨害もなしにらい患者を潔め、盲人の視力を回復させることもできるだろう。この力は地上に存し、あらゆるところに生育しているからである。しかしながらソフィストたちの思い上がりのため、自然の秘密とその偉大な奇跡のはたらきが日の目を見ずにいるのである。

自然は、それ自身すでに完成されているものを、明るみに出すことはないのである。全ては人間が完成させねばならない。この完成とはすなわち錬金術にほかならぬ。錬金術者とは、自然において人間に役立つために成長している全てのものを、その自然によって規定された目的へと導く人のことである。

神は鉱石をも創られたが、それを完成までには至らせず、その精錬を鉱山技師に任された。同じように神は肉体の浄化を医師に命じられたのである。そしてこの浄化によって、人間は神のごとく不壊のものとして現われ出る。