『ケルトの薄明』

昨日に引き続いてイエイツのケルトもの。文献は、W.B. イエイツ『ケルトの薄明』井村君江訳(東京:ちくま書房、1993)。これは、ただの民話の採録集というより、イエイツの個人的な回想や随想なども含めたケルト民俗学への入門書で、とても魅力的な書物である。

同じイギリスの周縁部といっても、アイルランドとスコットランドでは民話のパターンが違い、スコットランドでは邪悪な妖術師や魔女が出てくるのに対し、アイルランドではそれが出てこないことに対し、イエイイツはこのように書いている。「アイルランドでは悪い魔術に関する話を聞かない。人々の想像力は、夢想的そして気まぐれなものに宿ってる。それを、悪と善に結び付けてしまうと、その生命の息吹ともいえる自由さはなくなってしまう。」アイルランドの民話では、プレディクタブルな性格や行動をもつキャラクターがあまり出てこないということだろうか。あるいは、話の展開に、勧善懲悪的なパターンが少ないということだろうか。語り手の自由な想像力や夢想が、話を展開するうえでイニシアティヴをとっているということだろうか。(そういう、話すたびに自由に物語る民話を「採録」するって、どういう意味を持っているんだろう?)『ケルト妖精物語』でもそうだったのだけど、話の展開が、なんとなく「外して」いる気がするのは、この「夢想的で気まぐれ」によるものだったのかな。 

医学史に関係ある憶えておきたいポイントを二つ。ひとつは四元素説で、イエイツはアイルランドのナショナリズム運動の中で民話を集録して、それをアイルランドの国民性の発露として積極的に評価・解釈したが、その関係で、民族性のようなものをギリシア以来の四元素説につなげるということをしている。土の子供は砂漠の民のユダヤ人、火の子供は拝火教を信じる民族、そしてアイルランド人は、水の子供である。「海や湖、霧や雨の水は、その映像によってアイルランド人を作り上げた。それらの映像は、水面に映る影のように、私たちの心の中に形作られている。」

もうひとつはコレラの流行の話。レンスターのH 村は、村のあちこちに幽霊がでる村であった。ある男によれば、「ダンボーイ丘には死んだバーニー船長、桟橋には首なし人間が二人・・・そしてホスピタル・レーンには悪魔が」いる。ホスピタル・レーンというのは、コレラが流行したときに、ここに患者を収容する病院が作られて、流行がおわって病院が取り壊されたのちも、その小屋のあった土地は幽霊と魔物と妖精のものになった。コレラの流行のように、村人が一度に悲惨な死に方をする事件があると、人間社会は弾力的に回復しても、妖精社会の居住パターン(笑)は変わるんですね。そうやって、記憶の中に大流行が保存されるということだろうな。