現象学的地理学

必要があって、現象学的地理学の古典を読む。文献は、イーフー・トゥアン『空間の経験 身体から都市へ』山本浩訳(東京:ちくま学芸文庫、1993)

地理学は総じて非常に「硬い」学問なのだろうけれども、ある空間を主観的に経験するメカニズムや、空間に感情的に意味が付与される理由などを明らかにすることを目指す一派がある(らしい)。この学派が書くものは、良い意味でも悪い意味でも非常にソフトで、空間をめぐる事件についての自由な発想を喚起する力もあるし、空間をめぐる私小説のようなものに陥ってしまう危険もある。元祖であるトゥアンの書物は、好き嫌いはあるだろうけれども、やはり非常に優れている。空間についてトゥアンが書いている、「私たちが知ることができる現実の世界というのは、経験によって構成されたもの、つまり感情と思考によって作り出されたものである」という言葉は、非常に的確だと思う。ある街区に対するコレラ対策に、思考と感情の双方が働いていると考えると、いろいろなことが分かる。

豊かな洞察のひとつは、「人口密度」の概念である。ある空間が「密度が高すぎる」と「感じる」という現象は、空間の体積や土地の面積で人間の数を割った数字ではとうてい説明できない。昔の上流階級は召使に囲まれて生活していたが、召使いたちの密集の中に巻き込まれていたわけではない。召使いは身分が低いので、目に見えない存在であったのである。田舎から脱出して都市に行くというとき、数字で測った人口密度でいうと、人間がまばらで希薄な地域から、人間で混み合った地域に行くのだけれども、われわれが構成する「世界観」から見ると、都市には就業の機会などが多いので、選択肢が多い自由な(free) 空間に移動するということになる。

ひとつ、トリヴィアの無駄話を。たぶん有名な話だけれども、出所はこのあたりだったのか。人間の多くは右利きなので、世界のいろいろな文化ではやはり右が優位な側で、左が悪い・劣った側とされることが多い。キリスト教の神は、右手を上げて天国がある上方を指し、左手で地獄がある地面を指す。しかし、古代中国ではやはり右利きが多いのに、その思想では左が優位で、左は男性で陽、右が女性で陰をあらわす。これは、「南中」に基づくもので、天子は南に向かって、南中する太陽と直面するものである。そうすると、ものが出てくる東は左側にあり、ものが没する西は右側にある。