必要があって、ミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランスの講義録を読む。文献は、Foucault, Michel, Security, Territory, Population: Lecutres at the College de France 1977-1978, ed. By Michel Senellart, translated by Graham Burchell (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007).
正直言って、たぶん大事な問題がどこかにあるのだけれども、それが何であるのか表現できないもどかしさと、いつもながらの時間との競争で、苦しい日が続いている。そういうときに、おまじないのように読むことにしている学者が何人かいて、その一人がやはりフーコーである。フーコーの議論の常として、歴史学としては正しいとも間違っているとも証明できない-そして、どちらかというとたぶん間違っている-議論を組み立てているけれども、その深い洞察は、私にとっては最大のインスピレーションになっている。
よくあることだけれども、今回も、フーコーが言っていることとは何の関係もない、いま苦しんでいる問題に関して、小さいうろこだけれども、目からうろこが落ちた。東京のコレラには、ブロード・ストリートのポンプのように、一箇所から入って比較的広範囲に感染を広げる機械的な装置はなくて、長屋の井戸端で患者の衣服を洗濯した婆さんが問題だったということだけれども、なぜ、それに気がつくのにフーコーを読まなければならなかったのかは、聞かないでおいてください(笑)