『テレーズ・ラカン』


必要があって、エミール・ゾラ『テレーズ・ラカン』を読む。小林正訳の岩波文庫版で上下二巻のもの。

アルジェリアのオランで、フランス人の軍人と現地の女との混血として生まれたテレーズは、赤ん坊のときに叔母のラカン夫人に引き取られる。ラカン夫人がささやかな小間物屋を営むパリ北西のヴェルノンで、夫人の一人息子であるカミーユとともに成長する。カミーユは病弱で溺愛されて過保護に育ち、一方テレーズは野生の血が流れる生気溢れた女性であって、二人の気質は正反対であるが、夫人の願いどおりに二人は結婚する。虚弱なカミーユは(おそらく)性的に不能で、テレーズの体は満たされない。カミーユの希望でパリに移住した一家は、ポン=ヌフのセーヌ沿いの薄暗いじめじめした部屋で小間物屋を開き、カミーユは事務員の職を得て、テレーズは絶望と欲求不満を諦念で覆い隠す人生を送っている。

そこに、カミーユの友人で、体はたくましいが粗野で無責任で好色で怠け者のローランが現れる。テレーズとローランは、お互いの神経と体液に突き動かされるように、互いの体を求め合い、逢引の邪魔になる夫のカミーユを、二人でしめしあわせてセーヌに突き落として殺す。二人の犯罪は露見せず、不幸な事故として処理される。一年ほどしてから、当初の計画通りに二人は結婚し、ローランはカミーユに代わってポン=ヌフの家におさまる。

しかし、テレーズもローランもいわゆる罪の意識にさいなまれる。<いわゆる>という言い方をしたのは、特にローランの場合、良心や道徳の問題というより、当時の概念でいうところの<神経>と幻覚の問題として記述されているからである。カミーユを突き落とすときにローランは首筋にかみつかれたが、その傷口はいつまでも生々しい痛みを感じさせる。ローランはカミーユの死をこの目で確認すべく、パリの死体公示場(こんなものがあったんだ・・・)で水死体をチェックしていたが、そこでみた、水ぶくれして半ば腐乱したカミーユの顔の記憶は、いつまでもローランの生活につきまとい、彼が描く絵は、人はもちろん犬猫であれ風景であれ、すべてその水死体の似姿となってしまう。ローランの記憶に苛まれ続ける二人の生活はしだいにすさんだものになり、ついには殺人と死体の記憶から逃れようと、お互いを殺そうとして、結局は二人とも同時に自殺を遂げて「心中」を完成させることになる。

殺人の記憶にさいなまれる二人の生活を描くうえで非常に効果的だったのが、カミーユの母であるラカン夫人である。ラカン夫人は、二人が息子を殺したなどとはつゆほども疑わなかったが、ほどなく全身麻痺に陥る。これは、『潜水服は蝶の夢を見る』で映画化されて有名になった(私は予告編しか見ていないけれど)閉じ込め症候群 (locked-in-syndrome) を非常に効果的に使った文学作品のおそらく最初のものである。情報は入ってくるが、自発的な運動が、言葉であれ、身振りであれ、表情であれ、いっさいできなくなる病気である。この状態でラカン夫人は、二人が息子を殺したことを知る。テレーズにいたっては、あろうことか、ラカン夫人に告白と改悛をして、彼女の良心の呵責をごまかそうとまでしている。

生理学的人間観に満ち溢れ、死体と精神異常とトラウマと記憶とPTSDと障害と介護の問題を正面から扱っているこの小説は、読みやすいフィクションを通じて19世紀医学史を入門的に知ることができる作品であるが、私はこれまで寡聞にして読んだことがなかった。いつものことだけれども、無知を恥じる。

この作品はゾラ自身によっても舞台化されているし、何度か映像化されている。去年、ロンドンのナショナル・シアターでも上演された。画像はそのときのもの。以下のサイトでビデオを見ることができます。