明治の病院と看護婦の年齢上限


未読山の中から、幕末から明治の病院をまとめて略述した小文を読む。文献は、大鳥蘭三郎「近世日本病院略史」『中外医事新報』No.1221(1935), 278-282; No.1222(1935), 321-327; No.1223(1935), 365-368; No.1224(1935), 404-407; No.1226(1935), 471-482.

幕末から明治初期の日本で西洋医学を教える「医学所」の普及にともなって、それに付設される形で病院が広まっていったことはよく知られている。この論文は、長崎のように幕府によって新設されたもの、在来の藩の医学所を発展させたものに付設されたもの、戦争に関連して作られた特殊なものというように三つに分けている。函館のそれは、函館の医者たちが、ロシア領事に先を越されまいとして自発的につくったものだと強調されている。これは港町の風物詩であった娼妓の梅毒検診のためでもあった。それから、これは「病院」というより「診療所」というべきだが、江戸には将軍家の侍医であった多岐家の臨床教育設備があった。ここでは一人の患者に対して、複数の医学生たちが独自に診断して処方を書いてそれらを持ち合って合議し、そして最後に教師が自ら診断するという手厚い診断であったため、時間はかかるけれどもいい薬がもらえるに違いないと見込んだ患者が集まったという。

明治新政府は東北地方の戦役にそなえて、東京に負傷兵を収容し治療するための西洋式の病院を建設した。これは、当時横浜にあった横浜病院の設備を東京の津藩の藩邸跡に移すという形で実現された。イギリスから招かれたシュトルなる医師が治療にあたり、女性の看病人が付き添っていた。この女性の看病人について、シュトルは高い評価をしており、病人が死ぬと愁傷し落涙したという。しかし、この女性たちと傷病を負った兵士たちの身体が親しく接近するのは、やはりハザードを作り出していた。シュトルは、この婦人たちに対して病人が勝手な振る舞いに及ぶのを何度も禁じなければならなかったという。明治元年の11月に定められた病院規則は五箇条の規定を定めているが、その第三は、看病人は年齢が40歳以上のこと、またこれと関連するのだろうが、病院への40歳以下の女性の立ち入りを禁じるというものであった。 これはやはり、40歳が売春婦の年齢の上限を超えていたということだろう。 

そういう事情で、少なくともある時期の日本では、看護婦と売春の境界を強調して区別するために、初期においては看護婦の年齢を上げる方向に圧力が働いていた。一方で、イギリスでは、ディケンズの『マーティン・チャズルウィット』で有名な、無知で飲んだくれの老婆であるサリー・ギャンプが、近代看護婦がそれと対比させて自らを定義した対象であった。 イギリス人が、自国の看護改革者たちがまさにそれと戦っている老婆を日本の病院の看護婦として選び取ったのは、もちろん若い職業教育を受けたちゃんとした看護婦がいなかったからだろうけれども、ちょっと面白い。 たぶん、日本に近代看護の理念が導入されたときに、年かさの女性中心の看護から、すぐに教育を受けた若い女性になったと思うけれども、こういう「ぶれ」があったとは知らなかった。 

画像は明治43年刊行の「当世風俗五十番歌合」より、水兵と看護婦。