「構造的暴力」と健康格差について

必要があって、ハイチのAIDSと政治的拷問を例にとって、「構造的暴力」を論じた論文を読む。文献は、Farmer, Paul, “On Suffering and Structural Violence: a View from Below”, in, Arthur Kleinman, Veena Das and Margaret Lock eds., Social Suffering 8berkeley: University of California Press, 1997), 261-284. 著者は、ハイチのAIDSに関してすばらしい著作がある医者・人類学者で、一連の著作にはまったくの門外漢の私でも、深い感銘を受けた。その感銘を、実際の仕事に結実させることは、まだできていないけれども。

HIV/AIDSのパンデミーのごく初期から、ハイチでは大きな被害が出ているが、それらを現地で医者としてつぶさに観察してきた著者は、このリスクは、「政治的・経済的な力によって構造化されている」という。グローバルな産業構造の形成といった大規模な社会的な力は、個々人の「サファリング」(suffering) に、鮮明で硬い表層となって現れる。このような状況で、ある社会の行為は、その社会の「文化」に特有なのだから、その脈絡の中で説明されなければならないという文化相対主義は、現地の問題をきわめて狭く捉える近視眼的な視点に陥ってしまい、悲惨さが世界と社会に偏って分配されている構造を分析できないという。これを「構造的な暴力」と名づけている。この論文は、経済発展のためにダムが建設され、そのために水没した村の出身であるある女性と、ハイチの軍部のクーデターの結果成立した政権に拷問されて殺された男性の事例を引いて、それらの「サファリング」が、構造的な暴力の結果であると論じたものである。