国際保健と社会的正義

必要があって、昨日に続いて、ポール・ファーマーの本を読む。文献は、Farmer, Paul, Pathologies of Power: Health, Human Rights, and the New War on the Poor (Berkeley: University of California Press, 2003). 

事例としては、ファーマーがよく知っているハイチと、メキシコ、それからロシアの監獄などを、人類学も学んだ医者らしい達者な筆で描いている。それらの事例を通じて、国際的な政治・経済の中で収奪されている社会的弱者が、人権の侵害を受け、それと同じメカニズムの中で疾病に侵されていることを示している。この洞察により、それまで法律家や人権活動家の領域であった国際的な人権問題を、国際医療と国際保健の問題でもあるとして再構成している。「大きな脈絡の社会的な力は、[社会的弱者の]身体の上に病気として凝固し、彼らは[権利を]剥奪されるのである。」医者として、個人としての患者の病気に応えるという使命と、その患者個人の身体を狭く定義したときの狭隘さを超えて、最も広いグローバルな富と資源と自由の偏在を問うバネになる視点が確立され、そこから、よく言われているような think globally and act locally でなく、「グローバルに・同時にローカルに考え、二つの水準の分析をどちらも踏まえて行動すること」を呼びかけている。

もう一つ、これは国際保健を問題にしている人には常識かもしれないけれども、私にはとても面白かったのが、ファーマーが国際保健の三つのパラダイムを論じている箇所であった。ファーマーは、慈善・開発・社会正義の三つがあるという。慈善も開発も、推奨するべき点も多くあり、それらに基づいた国際保健が必要とされることもある。しかし、ファーマーによれば、現在の世界における健康の偏在は、社会的な正義がそこなわれている状態であると考えるべきであるという。WHOの報告書でも強調されていたが、日本やスウェーデンで生まれた子供は80年の人生を期待できるのに、世界のいくつかの国では40年しかなく、しかも、その予防法や治療法がわかっている病気で死んでいく人々が大部分であるという状況は、確かに「不正義」であるだろう。この不正義に対する「憤り」とか、それを正そうとする情熱を、実際の形に結実させ、しかもそれを個人の努力でなんとかなる範囲(たとえば自分の診療所に来る患者を誠実に治療するとか)を超えて、「社会」へと広めることが、本当に難しいことなんだろうな。

アマルティア・センが序文を書いていて、概念装置の説明が弱い(というか、ほとんどない)というファーマーの議論の弱点を指摘しながら、個々のサファリングの例から、ある概念を教えようとしていることが、この論者の魅力ではないかというような内容のことを言っていた。