宮島幹之助と民間医療伝承

先日の論文(渡邉富彦「『瘧』の民俗誌―その歴史と民間伝承・民間療法の諸相―」『地域文化論叢』9(2007), 69-95.)で、マラリアを日本で最初に科学的に特定した宮島幹之助について気になったことが書かれていたので、文献を取り寄せて読んでみた。文献は、宮島幹之助「瘧の方言並に迷信に関する材料を求む」『東京人類学雑誌』18(1903), no.203, 180-183; 窪美昌保「瘧疾に関する迷信(宮島幹之助君に答ふ)」『東京人類学雑誌』18(1903), no.206, 315-318.

話は簡単で、京都の久世郡淀町でマラリアの研究をした宮島が、人類学会で「瘧」の方言や迷信などの民俗を収集することを呼びかけ、窪美昌保なる人物がすぐに応えたものである。どちらも、宮島の論文も窪美の論文も、それほど実質がある論文ではないけれども、この現象がちょっと面白いから、書き留めておく。

宮島は東京帝大で動物学を修め、京都帝大の衛生学の研究室でマラリアを研究したのであるから、当然のように近代的で科学的な医学・寄生虫学の学徒である。この論文の中でも、ロスやグラッシなどの業績を高く評価している。それにもかかわらず、方言や迷信を集めようとした動機を、宮島は「負うた子に教えられて浅瀬を渉る」といっている。つまり、マラリアが多い地方の土人や無知の黒奴の間でも、マラリアは蚊と関係があることを知っていた。「気に留めるにも値しない土人の言い伝えにも幾分かの真理が含まれている」のである。わが国の地方にあるマラリア(「瘧」)についての言い伝えを集めてみれば、その中には医学者が知らなかったことを明らかにすることができる端緒があるかもしれない。また、マラリアは憑物のせいにもされ、これについての迷信を集めると人類学にも益するだろう。そういうわけで、このマラリアの民俗誌プロジェクトを呼びかけるのであると宮島は説明している。

宮島にこれを思いついたのは、京都の久世の村民から、瘧は河の近くに行くと「ふるう」だとか、蚊が多い年には瘧が多いといった、科学的に正しい観察を聞いて感心したからだろう。その意味で「科学以前の科学」を発掘しようという、かつての医学史家たちと大体同じことをしているわけで、特に目新しいことではない。西洋の帝国主義医学の中でも、きっとよく見受けられるのだろうと想像している。

私が少し気になったのは、このような事例は、日本の医学の近代化の歴史の中で、どのように位置づければいいのだろうかということである。宮島をはじめ、明治日本の近代医学のエースたちは、「負うた子に教えられて浅瀬を渉る」ことが本気であると思っていたのだろうか?