『健康格差社会』

未読山の中から、社会疫学の入門書を読む。文献は、近藤克則『健康格差社会―何が心と健康を蝕むのか』(東京:医学書院、2005)

健康の社会的決定要因を重視して、新しい公衆衛生には、個人とそれを取り巻く生物学的な要因に働きかけるだけでなく、格差の縮小や社会的なつながりの強さ、ソーシャル・キャピタルの増大などが必要であると主張する社会疫学の成果を紹介した書物。読み応えがあるデータと分析の紹介の多くは、イギリスのマーモットやアメリカのイチロー・カワチなど外国の研究だけれども、筆者たちが行った日本のデータも紹介されている。3万人程度の高齢者をサンプルにして、年収・教育程度と、抑うつ状態との相関を取ってみると、年収と教育程度が高いほど、抑うつ状態の人の割合が低いというデータである。当たり前じゃないかという気がするけれども、統計を取ってみると、まず表面的に見えてくることのほとんどは予想していたことであるのは、私自身も自分のリサーチで経験している。

筆者の主張の大枠には大いに賛成するし、政治的・イデオロギー的にはシンパシーを感じる。ただ、筆者自身の言葉を使うと、分析や主張に「切れ味」が感じられない。筆者は、これまでの医学と公衆衛生の主流であった「生物学的モデル」と対比して「生物学的・心理学的・社会的モデル」を社会疫学の基本パラダイムとして提唱して、「生物学的モデル」には「切れ味がある」と言っており、暗黙のうちに後者には「切れ味がない」ということを認めている。この「切れ味があるかないか」というのは、私が社会疫学の成果の多くについて持っていた漠然とした不満というか、期待を裏切られている感じのようなものをうまく言い表している。

筆者は、社会疫学の過度に決定論的な傾向が持つマイナス面についても気を配っている。相対的に貧困である層に属していると、必ず不健康になるのだとあきらめないように、心理学的な要素についても取り上げ、自分で自分を健康だと思うかどうかという「主観的健康」の概念を説明している。(日本は、OECD諸国の中で、この主観的健康が最も低い国の一つであるが、平均寿命は最も高い。平均寿命が比較的短いアメリカで主観的健康の指数は最も高い。素人考えだと、こういう結果を出してしまう指標は、やはり今のままでは使い物にならないと思う。)

「主観的な健康」の概念はとても重要だけれども、この書物がいう概念は、やはり魅力がない。「人生に前向きで、物事のよい面をみようとする人ほど、また運まかせではなく自分の幸せは自分の手でつかむという姿勢の強い人ほど、自らの命を救い、病からの回復というよい面や幸せを、実際に自分の手でつかんでいるのである。」という言い方をしているが、これは、学問というよりも、成功する人生をつかむための、平成の修身の教科書といったほうがよい。 道徳でも修身でもいいけれども、それを初等・中等教育で教える必要があるかどうかというのは、議論があるところだけれども、社会疫学の教科書を読んでまで修身を教える必要があるとは思わない。