『仰臥漫録』

必要があって、同じく正岡子規の『仰臥漫録』を読み返す。阿部昭の解説で岩波文庫のものが出ている。

岩波文庫しか見ていないので、詳しいことは分からないけれども、『仰臥漫録』は、『病床六尺』や『墨汁一滴』と性格が違うテキストである。この三者はほぼ同じ時期に書かれていたが、後者の二つは新聞連載の形で出版されたテキストであるのに対し、『仰臥漫録』のほうは、少なくともそのままの形では出版を意図しなかった日録的なものである。だから、朝昼晩に何を食べ、何がまずかったか、間食には何を食べ、便通は何時で、モルヒネの鎮痛剤(麻酔剤と呼ばれている)は何時だったかという、医者がつけるような日誌にあたる生活のログが生の形で出ている。それ以外にも、友人が訪問したこと、家族(母と妹)との会話、雑誌などで読んだ俳句の評論、ちょっとした写生画などが収められている。

こちらのほうは、そのままの形で出版はされないから、子規は自分の病気に関して多くを書いている。身体の尾篭な話もストレートに書いているし、家族への憤懣も、同時代の俳人に対する批判もストレートにぶつけられている。病人の不安定や幼児的な泣き言ともとれることも多い。

出版向けにより刈り込まれた『病床六尺』にくらべ、『仰臥漫録』のほうが、偽善がない、病人の生の声が伝わってくる、「優れた」闘病記なのだろうか?これは好き嫌いの問題じゃなくて、闘病記からどんな機能を期待するのかという問題じゃないだろうか?私は、抑制とディシプリンが効いた『病床六尺』も、痛みによる絶叫ややり場のない怒りを妹にぶつけ、あさましい欲(特に食欲)を炸裂させている『仰臥漫録』も、どちらも闘病記を作るものだと思うんだけど。