『緑の列島』

必要があって、日本の森林史/環境史の古典を読む。文献は、Totman, Conrad, The Green Archipelago: Forestry in Preindustrial Japan (Berkeley: University of California Press, 1989). これは『日本人はどのように森を作ってきたのか』というタイトルで翻訳されている。

律令時代から江戸時代の末まで、近代以前の日本の森林史を一筆で描き出した書物。歴史上、日本の森林は二回の危機があったという。一回目は奈良や京都に都や巨大な寺院や屋敷などが建設された8世紀からで、この時期に畿内の容易に伐採して運ぶことができる森林は伐りつくされた。東大寺だけで900ヘクタールの森林が必要だったという。この危機は、畿内に限定されていたのと、中央の権力の弱体化によって、それから徐々に回復へと向かう。村では自治の思想ができて、入会の規則で伐採と山の資源の利用を制限することも行われた。

第二の危機は1570年から1670年。戦国時代の大名と天下統一した秀吉・家康の巨大な城郭の建設、京都の再建(秀吉)と江戸の建設(家康)は、膨大な材木を必要とし、これは蝦夷地を除く全国から集められた。また人口の増大はそれまで森林だった部分を耕地として開発することを必要とし、金属の利用(刀とかよろいとか)、陶器の生産、塩の生産などは、燃料としての森林の伐採をもたらした。これにより、森林の伐採は極限まで進み、ある論者は、山は、十のうち八までは禿山になったと書いている。これは、第一回の危機とメカニズムはほぼ同じで、より大規模になり、また、畿内に限定されていた危機が全国に及んだのである。

日本がこの危機を乗り越えた過程は、二つのステップで説明されている。第一段階は、幕府や藩が、森林の伐採を制限したこと、第二段階は植林が定着したことである。1657年の江戸の明暦の大火で材木が必要になったときに、森林の危機があらわにされ、それ以前にも散発的に存在した森林を指定してそこからの伐採を禁止することが行われた。この規制が「時間を稼いでいる」あいだに、植林の方法が、農業書などで説かれるようになった。1830年には、日本の森林には、長期的な安定がもたらされた。人によっては過度に単純化されているというかもしれないけれども、私のような門外漢には適度に単純化された話だと思う。

話としては行政史と経済史の枠で、一部の日本文化論者が言いそうな、日本人は自然を愛する国民だからとか、山は神聖だと思われていたからとか、そういう議論に落とし込んでいないところが、私は共感した。それにもかかわらず、この書物の冒頭は、多くの日本人の心の琴線に触れると言ったら言い過ぎかもしれないけれども、たしかな詩情をたたえている。日本の地形と気候では、木が植えられていない山は地すべりを起こして崩落し、景観と生活は破壊される。密度が高い人口で文明を追求してきた近世までの日本は、露出した崩れた山ばかりの荒れ果てた景観になってもよかった。それを救ったのは、社会の力だというのである。

外国から飛行機で帰ってくると、日本の山の緑というのは、たしかに目に染みるように美しい。一度、韓国から飛行機で日本に帰ってきて、韓国の土と岩が露出したような山に較べて、島根とか鳥取とかのあたりの緑の山と、そのあちこちに点々と開かれた村を空から見たときには、なんて美しい風景が作り上げられてきたのだろうと感じ入った。浅海を干拓して陸地を作ったオランダには「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という、いかにもオランダらしい幼稚なお国自慢があるけれども、そんなことを言えば、日本だって日本人が作った。