環境史の意義

必要があって、環境史の本質的な意義をコンパクトに論じたエッセイを読む。文献は、Nash, Linda, “The Agency of Nature or the Nature of Agency”, Environmental History, 10(2005), 67-69. 環境史を位置づけるときに、私が漠然と陥っていた思い込みがあって、それを正してくれたエッセイ。

歴史学の中心は人間の行動、それも意図に基づいた行動であった。かつては、ここで「人間」と言われているのは、当該社会のエリートであるヨーロッパの白人の男性だった。(日本史ではもちろん<ヨーロッパ人>ではないけれども、ここではそれは問題ではない。)1970年代に上昇した社会史とか民衆史とか呼ばれている歴史学の一つの視点においては、非エリートにも着目して、少数民族だとか貧しい階層だとか女性だとか奴隷だとか植民地の原住民だとかの意図的な行動も歴史を作ってきたことを示した。これを、非エリートにエイジェンシーを与えたという言い方をする。

この社会史への移行をそのまま環境史にあてはめると、環境史は人間以外の生き物や存在である「自然」にもエイジェンシーを与えたということになる。しかし、自然は少なくとも人間と同じような意図を持っているわけではない。古典的な例で言うと、ミツバチが巣を作るのと、建築家が家を作るのでは、意図があるかないかという基準で区別することができる。(私はミツバチの行動を知らないが、たぶん意図はないのだろう)だから、自然は エイジェンシーではなくて、ダイナミックな構造を与えているのだという位置づけができる。

しかし、人間の意図というのは、真空の中で形成されるのではない。ある環境の中で、特定の条件を持つ自然的な世界との関係の中で形成される。つまり、環境や自然は、人間の行動だけではなく、意図も形成するのである。すなわち、環境史というのは、人間の精神を、他の生き物が住み、自然的な条件を備えた世界の中へとおいてやる営みなのである。 

社会史が非エリートにエイジェンシーを付与しようとしたことは、この時期に鮮明になったアクティヴィズムと深い関係がある。それとパラレルに考えて、環境史は、環境を構成する人間以外の生き物にエイジェンシーを与えることだと誤解しがちであるし、実際、私はそんな風に漠然と思っていたが、この「エイジェンシー」という概念の使い方は、明らかに不十分である。不明を恥じる。