『恋の形而上学』

必要があって、16世紀にプラトンの著作のラテン語訳を刊行したマルシーリオ・フィチーノの『饗宴』注釈を読む。文献は、マルシーリオ・フィチーノ『恋の形而上学フィレンツェの人マリシーリオ・フィチーノによるプラトン「饗宴」注釈』左近司祥子訳(東京:国文社、1985)。

この書物には読んだ痕跡があるけれども、20年前に、なぜこんな高級な本を買って読んだのか、実は憶えていない。私は、フィチーノプラトン注釈に、さらに訳者の詳細な注が300以上も打たれているような、高度に学術的で専門的な書物を買う必要があるような知的水準に達したことは一度もない。今回読み返しても、思想としてフィチーノのプラトニズムを理解するところには到底いたらない。

しかし、ここに描かれている世界観と人間観は、切なくなるような美しさを持っている。人間に本質的にそなわっている「恋」は、イデア界の最高の光の輝きをほめたたえ、それを求めて神の世界へと上昇していく。ちょっと医学史のトリヴィアっぽいことを言うと(笑)、そこではマラリアの悪寒と発熱までもが恋のたとえとして使われている。

「恋のわなに落ちたものが、ため息をつくかと思えば、歓声をあげ、またため息をつくという情景もよくあることである。彼らがため息をつくのは、自分を他人に手渡してしまい自分を喪失したからである。歓声をあげて喜ぶのは、自分を手渡した相手が自分よりも善いものだからである。また、彼らは発熱と悪寒を交互に体験する。その点で三日熱におそわれた人に似ている。悪寒を感じるのは自分の暖かさを失ったためであり、発熱するのは最高の光のきらめきを受け、燃え立つからである。悪寒は臆病を生み、発熱は豪胆さを生む。そこで彼は、交互に臆病になったり豪胆になったりする。また、ひどく鈍重なものも恋することによっていくぶんかは鋭敏になる。神の光の補充によって眼力が鋭くならぬ者があろうか。」

もうひとつ、「恋をしている人は誰であれ自分ひとりでは屍なのである」というプラトンの言葉(訳者の注によると、そんなことはプラトンは言っていないそうだけど)を引いて片思いと相思相愛を論じている箇所が面白い。

「恋には片思いと相愛がある。前者は恋されている人が恋している人に恋を返さない状態である。この時には恋している人は完全に死ぬ。すでに証明し終えたように彼は自力では生命を持つことができない。それなのに、恋人からも拒絶されたのである。恋人の中で生き続ける望みも消えた。いったい彼はどこで生命をえたらいいのか。空中か、火中か、それとも地中か。または獣の体内か。とんでもない。人間の魂が人間以外の身体の内で生きることなどありえない。それでは恋人以外の他人の身体の内で生きるのはどうか。まれにはあるだろうか。決してそんなことはない。なぜなら、彼が狂おしく願っているのは、恋人の内での生存であって、そうでないなら彼は生きていたくないのだ。(中略)それに反して、恋人が恋でこたえてくれた時には、恋する人は生存の場所を恋人の内に見出す。これはまったく神秘的といっていい出来事である。」

後期ルネッサンスのヨーロッパの知的な医者たちは、アリストテレス哲学に基づいたガレノスを極めることこそが医学を完成する道だと信じていた。ガレノスの著作の多くは、論争的な理屈と観察と分類のカタマリと言ってもいい。ガレノスを学んでいた医者たちが、このようなプラトニズムの思想に触れたとき、さぞかし心が浮き立ち、解放感を感じたのだろうか。私にはそのあたりは、まだちょっとぴんとこないけれども。