パナマの衛生地区


必要があって、パナマ運河に建設された「衛生地区」の研究を読む。文献は、Frenkel, Stephen, “Geographical Representations of the ‘Other’: the Landscape of the Panama Canal Zone”, Journal of Historical Geography, 28(2002), 85-99.

使っている概念装置はサイードなどの他者化論(「自己と他者を社会的に構築し、帝国とその内部に市民における不平等な関係を生み出した権力の階層性が、旧植民地の社会を作る根本的なビルディング・ブロックになったこと」)で、それほど目新しいわけではないのかもしれないけれども、議論は明確だし、リサーチも丁寧である。

パナマ運河は、1889年にフランスが開削を放棄したのち、アメリカが注目していた。1903年にアメリカはパナマをコロンビアから独立させ、その数日後には新政権と条約を結んで、運河を開削する権利、その両側5マイルの土地を支配する権利を得た。その地域ではアメリカは司法権と警察権を得て、事実上「運河地帯」を領有することになった。パナマ運河の完成にともない、1914年に運河地帯の行政はアメリカ大統領のもとにおかれ、アメリカによる支配が完成した。

「運河地帯」は人種の隔離と差別が厳格に行われた。パナマの現地人は追放され、西インド諸島からの移民労働者が雇われたが、後者も黒人であり、怠惰で労働に向かず、マラリアや寄生虫などの感染症のキャリアーであるという言説が流布していた。合計で、1万人のアメリカ人と3万人の西インド諸島出身の黒人が住むことになった「運河地帯」(450平方マイル)の要所には「衛生地区」(3000エーカー)が建設された。衛生地区には整形庭園が建設され、各家庭が庭に植栽して美観を向上させるためにガーデニング・コンテストが開かれた。そこには白人も有色人種も居住を許されたが、衛生上の管理が簡単になるという理由で有色人種は集められて、両者は別の区域に住んでいた。また、ドアの入り口が違うなどの人種主義も行われていた。

このパナマ地帯は、パナマという他者的な土地の中に作り出された白人のための人工の楽園であった。パナマはジャングルであるとしてイメージされ、その自然は異国的で官能的だが、その自然の豊穣さは「コントロールを失った生殖の暴走」であって、文明はそれと戦わなければならないものであった。

パナマの運河地帯はアメリカの植民地支配にモデルを提供し、プエルトリコでもフィリピンでも、パナマの経営方針が参考にされたという。

画像は、この論文より。パナマ運河地帯と「衛生地区」の地図。